3月31日、NiziUのツイッターが荒れた件

発端はリオのバブルらしいけど、よくわからない。これから書くのは、そのことではなく、その後、TLにたくさん見た(相変わらずの)意見に対してだ。

一例を挙げよう。

練習室動画を出せと言う。わざわざ、衣装決めてパフォーマンス動画にしなくていいから、と言う。そんなことさえできないとして運営をぼろくそ言う。
そう言われていることくらい百も承知で、費用も手間もかからない練習室のプラクティスでなく、わざわざMV的なものにしたのには意味がある、と思考できないことへの反省もなく。
この件で言えば、NiziUは練習室の切り取りを出せる段階ではない。これは恥ずかしいことでも何でもなく、NiziUの成立の状況から考えると当然。それくらい察して当然だけど、とうとう、先日、リオに「早く練習室動画を出せるようになりたい」と言わせてしまった。それでもまだ察しないのは、読解力に問題があるというしかない。この件の批判は、運営ではなく、NiziUに向いてしまうことを理解するべきだった。

そして、一事が万事である。

NiziUが悲しむから運営の批判はダメだという論法は、私も違うと思う。いや、正直、言い方だってどうだっていいとさえ思う。でも、私が見る批判は、NiziUの特殊性も、したがって運営が置かれている状況の特殊性も理解できていない、Kポの標準どおりでないことが気にいらないだけの浅いもので、したがって何の建設的な内容も感じられない。「お花畑」と他人を批判できるような深い思考は見たことがない。そんなもので、人を不快にする正義を、私は知らない。

さらに、私は運営を批判しない。なぜなら、私には、運営が直面している状況に関する情報が圧倒的に不足しているから。一介のファンはみんなそんなもんだ。私ごときの意見で、運営やNiziUを動かそうという発想は出てこない。

こういうことを考えた上で、ポジティブなことしか言わないように心がけている。だが、さすがに目に余ってしまった。

NiziUは、無知による誤解にさらされやすいグループ。そういうことをよくわかった上で、彼女たちが苦しいときに支え、ときに盾となろうとするのを、「ファン」というのではないか?


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