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NiziUの英語曲についての確認

以下は、昨年(2021年)7月9日に、ツイッターで画像にして発表したものです。そして『夜に駆ける』の部分以外は、その年の初めに、First English Songの発表があったときに、思ったことです。
ということで、結論の部分は、Take a pictureとPoppin' Shakin'の2つの英語バージョンが出る前のものです。私が異を唱えたのではなく、結果が私の意に反しただけです。ただし、今後の希望として、今も変わらぬ考えですので、ここに残しておこうと思いました(少し、加筆修正しています)。

日本語と英語の音韻体系の違い

五七五のリズムなどと言います。―古池や 蛙飛び込む 水の音—「五七五のリズム」を作っているのは言葉の意味の切れ目と、切って読む行為であって、音にリズムは内在していません。しかも、カルタの読み方を思い出せばわかりますが,本来「ふるいけやああかわずとびこむううみずのおとおお」と読んでいました。ここには,私たちが普通にイメージするリズムは存在しません。

英語と日本語で3音節ずつ並べてみましょう。それぞれ、音節の頭を大文字にしています。
 (英)HopStepJump  (日)MaYuKa
子音で終わる閉音節だらけの英語では、上の通り、音節と音節の境目に子音の連続が生じ,これが音の停止をつくるため,普通に言うだけで「パン・パン・パン」という拍が生まれます。一方、母音で終わる開音節しかないと言っていい日本語の場合,頭の子音は音色の違いを生む程度の効果しかないので,音色を変えながら「アーアーアー」と音が鳴り続けることになり,普通,リズムは生まれないのです。

 また、英語は,音節単位で単語が切れるので、音を止めることに躊躇しません。例えば、Stand by Meの歌い出しを見ると、
 When the night ○ ○ ○ has come
のように、平気で歌わない空白をつくります。直訳のダサい歌詞でどうかと思いますが、日本語なら、「ヨルガーーキタトキーー」のように声を出し続けるのが伝統的です。日本語の歌って、ずっと歌ってるんです。

音がだらだらと続いて、リズムがなく、「歌い」で曲を埋め尽くす日本の歌を、洋楽と比べてダセーなあ、と若いときは思っていました。これは、洋楽を聞いて育った人間が歌を作ろうとしたときに突き当たった問題だし、もっと遅く、日本語ラッパーの前に立ちはだかった(今でもある)壁でした。

奇跡の徒花

 リズムにおけるハンデを埋める工夫の先駆者は1978年夏に現れました。桑田佳祐です。『勝手にシンドバッド』や『C調言葉に御用心』などの初期の曲で私たちが出会ったのは、日本語の音韻体系を無視して、語の発音を変える、意味の整合性や文法を無視して、語を採用し配列する、単純なところでは子音を際立たせる―現代のJpopで当たり前に見られるようになった、「壁」を打破するための手法の始まりです。

ただ、この先に苦い真実が待っています。何言ってるかわからないという批判は、今では笑い者にしかならないでしょうが、英語のラップが高速でも意味がついてくる、という事実を前にすると、やはり、弱点を正確についています。そんなにリズムが大事なら、最初っから英語でやればいいじゃん、は超えられない事実です。

 以上の前提の下で、『夜に駆ける』が(たぶん偶然に)やっていることの意味を考えると、チョット興奮します。イクラは曲の間中、歌い続け、声を出し続けていますよね。しかも正確な日本語の発音で。つまり、開音節の音節を連続させまくっているんです。ただ、2つ、特別な点があります。音節の連続が高速で行われることと、音の激しい高低差を飛ぶこと。

ある音を長く発声しても短く発声しても、子音の長さは変わりません。音節の連続を高速で行うと、短い母音を挟む子音が目立つようになり、あそこにしかないリズムが生まれています。高低の激しい移動が、ビートによらない切れ目を生んで、これもまた独特のリズムをつくっています。歌い続けるメロディの圧縮から析出した純和製リズム―日本の土壌と日本の水でしか咲かない奇跡の花。これこそが,この歌に私が感じていた不思議な魅力の正体でしょう。ボカロのマネができる人間がいたことではありません。一つの極限の達成としてJpop史上に残るべき作品でしょう。ただし、この奇跡は、息継ぎもなしに、やりっぱなしに歌い続けるボカロを、人声がなぞること、まさに人間がボカロのマネをすることで偶然に実現したことだろうと思います。同じことをやればマネになるし、色気を出して工夫を加えれば壊れてしまうという点で,子孫を残せない徒花です。

 結論は決まっていた

『夜に駆ける』英語版。これが,NiziUの英語曲が世界へ出ることにどう参考になるか考えたい、と始めた考察ですが、すでにお分かりの通り、英語版の成功は原理的に難しいです。実際,聞いてきましたが、いたるところで、英語はつまづき、もたついています。イクラのせいではありません。空耳的に日本語に聞こえるようにしたところ以外は,元の歌詞にこだわってしまっていますが、それも、今回の失敗の原因ではありません。原曲の不思議な等拍のリズムに英語のリズムが宿命的に合わないせいです。英語曲として成立させたければ、英語に合わせてリズムを切り直すしかありません。もちろん、ずっと歌い続ける歌詞の置き方も変えて。しかし、それは、原曲の魅力を失った,凡庸な英語曲の誕生を意味するだけです。

 NiziUのための結論は,もっと先にわかっていた、あっけないものです。「最初っから、英語のためだけの曲をつくれ」です。日本語版が先にあっての英語版がだめなのは,もちろんですが、逆もだめです。英語だけのことを考えた曲が必要です。世界の音楽シーンがアメリカ中心であることが変わらないかぎり、世界は英語です。今回、Jpopではなく、日本語曲の限界を考えさせられ、その思いを強くしました。

だから、何か1曲で世界チャレンジ、という考えを捨てることでしょう。毎年出す。3年目からは、NiziUの曲の半分は英語曲―それくらいの覚悟が、世界を狙うならいるでしょう。運営にも,ファンにも。

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