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スパサマのダンパが教えるNiziUの特性

スパサマのダンパから

1984年、サラエボ。トービル・ディーン組がボレロに乗せて踊ったアイスダンス。芸術点において審査員全員が満点をつけたという情報程度では、リアルタイムで放送を見ていた私の感動は伝えられない。それほどに素晴らしいダンスだった。徹頭徹尾「美」。要素・構成・進行、そしてそれらが総合した達成のすべてが、極限まで美しく、4分余りの演技の間、画面にはずっと「美しさ」しかなかった。言い換えれば、私は、その極限の達成を支えるスキルを意識することのないまま、美しさに見とれさせられていたのだ。こう言えば、虹プロを知る者の頭には、あの有名なセリフが浮かぶだろうが、「歌手はダンサーのように見えてはならない」のあのときの意味と「スキルが透けているうちは演技として未完成」とは、実は種類も違う上、後者の方が一つ高いレベルの話だと思う。Super SummerのDance Performanceの魅力を考えていて、このボレロを思い出し、思わず手を打った。『ミイヒ論①』で触れたことを、別の方向に進めて考えることとなった。

ダンスを踊れないどころか、知識もない状態で言うが、ロックにしろヒップホップにしろ、ダンスの基本的な型=モジュールがあると思う。モジュールという非ダンス用語を使ったのは、名前のついた基本ステップをもう一つ砕いたレベルを想定しているからだ。そのモジュールを身体に入れることができれば、それをアレンジしつつ組み合わせることでダンスを組み立てることができるだろう。わかりやすさのために比喩が雑になるのを覚悟して言えば、モジュールをマスターした状態とは、レゴブロックをもっている状態。それを適当に組むことは簡単で、しかも適当に組んでもとりあえず何か形になる一方、もってない素人が、まさに手も足も出ない状態によく対応していると思う。

韓国のアイドルは、このモジュールが身体に入った状態でデビューする。振り付けを覚えさえすれば、とりあえず踊れる。グループの場合、さらに動線の確認とメンバー間の調整をすれば、一定の水準の群舞になる。プラクティス動画くらいいつでも撮れる。

デビューの時点で、NiziUのメンバーの数人は、上に述べた段階の一つ前の段階、ダンスのための身体づくりさえできていない状態だった。必要とされる動きがわかっても身体がついて行かない状態。『U』のカムバでそれに対して彼女たちが何をしたかを十分に見せてもらったが、まだ、グループの基本的状態として、モジュールを身体に入れる段階には至っていない。ブロックを持たないまま一つの建築物を造る―—1曲のダンスを仕上げようとするとき、NiziUは常にそういうことをしている。完成までの時間がかかる上に、途中の段階がない。練習室動画を出すわけにはいかないのだ。

だが、この弱点でしかない所与を、彼女たちのひたむきさが奇貨に変える。頼るべきモジュールを持たない分、振り付けの再現への集中と執着の度合いを高めるしかないが、彼女たちはやってのける。その結果の再現性の高さは比類のないもののように思う。よく言われるシンクロ率の高さも、このことの現われだと思う。レゴで作った家がブロックの存在感を消せないように、モジュールに頼ったダンスは、スキルのゴロつき感がある。NiziUは、最初からこの問題から自由だ。そのダンスは、あのボレロとともに、こう教えている。作品の素晴らしさが全てだ、スキルはそれを支えるもの、見える必要はない、むしろ見えてはならない、と。

そして、NiziUの歌

このことは、歌においてもっとはっきりする。devaと言われる人たちのそれのように、歌唱力を前面に出して表現し、そのように受け取られる歌もあるが、一般的に、洋楽を聴いたとき、その「歌唱」のパフォーマンスの前面に立っているのは、「カッコよさ」や「渋さ」や「美しさ」で、それが高い歌唱力とテクニック(それを聴き手の意識の前面にぶつけないように、さりげなくやってのける高さの)によってなされていることの認識は一歩遅れて来る。ここでも、大事なのは、作品としての「歌唱」、歌のスキルではない。

ただし、歌とダンスは、どこまでも同じなのではない。繰り返しの練習で、振り付けを理想通りに再現することはできても、歌のスキルを欠いたまま歌唱をある高みにもっていくことはできない。しかも、合唱ではないから、シンクロ率云々もない。むしろ、9人という人数の多さは、歌唱力の平均をとる際は、原理的にハンデだ(ここで、声の個性の多様性を持ち出した抗弁はカンベン願いたい。能力で選別した結果の集団において、人数が多いほど、能力の平均が低くなる、という原理の話をしている)。歌声の多様性が魅力を発揮するのも、歌唱力があるレベルを超えてからだろう。すでに、その萌しは見えていると個人的に思うが、この点では、もうしばらく待つ必要がある(そして、待っていればよい)と思う。だが、別の面がある。

「歌唱」において、スキルではなく作品、というとき、スキルに表現力を加えなければならない、言い換えれば、スキルをぶつけるのではなく、表現にスキルを仕えさせることが必要だということだ。歌の表現力の天才ミイヒがいて、その隣りで、このことの重要性をすでに悟っている、歌唱力の天才ニナがいることだけでも、このグループの歌の可能性は尽きない、と思う。

「作品」とは

ダンスにおいても、歌においても、上の話では、重要な面を抜いている。それぞれ、パフォーマンスを捨象した部分、つまり、振り付けそのもの、「歌唱」ではない、楽曲そのものだ。これの出来が大きな部分を占めることは言うまでもない。何かの供給で運営にせっつく気なんて、毛ほどもないけど、ダンスも歌も、いい作品を与えてくれ、とだけは思う。


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