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註解『RIMA語概念の基礎』

(この記事は、[NiziU LOG] NiziU School #1 を前提に書かれています)

例えば、「やばい」の意味が転化したことや、なんでもかんでも「やばい」で済ませることは、じつは「すごい」でも起こってたこと。こういうことを語彙と表現力の貧困とけなして終わる人もまだいるようだ(これは、よろずにつけて「あはれ」「をかし」「いみじ」で済ます平安文学からのことだけど)。語彙と表現力が不足していることは間違いないけど、価値表現の形容語の流行には、ある意志がはたらいている。あることを表現するときに「すごい」という言葉しか思い浮かばない、しかし、それでは、自分の思いを表現するには足りない、といって適切な語彙を選択することも、絶妙な比喩を当てることもできない、せめてこの感慨の強度だけでも盛り込みたい―古いものが捨てられ、新しい形容語が選択される背景には、無意識に近いレベルで、だいたいこんな感じの動機があると思う。
まだある。「~的」とか「~みたいな」とか(私の大学時代の後輩は「~でもないけど」を多用していた)の、断言を避ける表現も同じだ(責任をとりたくないからとか、人間関係に軋轢を生じたくないからとかの的外れな理由が当てられることが多いけど)。自分の感慨は特別だという思い、この言葉ではその感慨を表しきれないという思いからの、断言することへのためらいである。
どちらの場合も、人は、自分の不定形な内面を、正確に表現したいという芸術衝動の萌芽を経験しているのだ。

さて、日本語の「~みたいな」に対応する英語が、前置詞(口語では接続詞にも)「like ~」だ。ここでも特定の表現に限定することへのためらいをはたらかせることができる上、英語の場合、語順の関係からlikeを先に言って、後の表現を吟味することができる。likeが「表現へのためらい」と「表現の吟味」を表せるとすれば、そのときのベストな日本語訳は「えっと…」だ。18歳のアイドルは、中途半端な言語学者や英語論者の思いもよらないこと、そこそこの翻訳家にはとうていマネできないことをやっている(註:これは、外国語として対応を学んだ者ではなく、ほぼ両方ネイティヴの状態で体系を体に入れた者ならではの、体感としての対応の意識だろう。でも、リマがスゴイことをやってることに変わりはない)。

「擬声語(正確にはオノマトペ)」「発音」「新造語」「English」「発見」の項目の設定のし方からも、分析的で理論的なアプローチであることはわかるけど、そのこと自体は、欧米式の論文作成のアサインメントに真面目に取り組んだ「勉強家」リマの面目躍如ということだろう。それよりも、私が注目するのは、この5項目がいずれも「詩」の発生に関わっていること。極めて初歩的ではありながら、この子は詩人として日常を生きている。これは、じゅうぶん、驚くに値する。そして、何より素敵なことに、これほど分析的でありながら、「人生=世界=最高」と「全世界=目の前のみんな」を同時に提出して平気な、やりっ放しのあっけらかんさ。前に言ったことがあるけど、この子の「普通の状態でスーパーサイヤ人でいやがる」感は、私の理解を超えている。どうやったら、こんな子が出来上がるんだろう。そして何でまた、この子がNiziUにいるという奇跡が許されるんだろう。


私もまた、皆さんと同じように虹スクを楽しみます。理屈っぽいことを言うネタを探す目つきで見たりはしません。ただ今回見えてしまったものの凄さに圧倒されてしまった。

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