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あきらめコンテンツの時代と森田童子 下

この記事は前回の記事の続きです。


死を隠せば、死はやってこなくなるのだろうか?死は、私達が意識しているからやってくるのだろうか?

そんなはずはない。

死ぬことを一切考えず、死をどれだけ自分から遠ざけようとしても、死は必ずやってくる。私は死に、あなたは死ぬ。

であるのならば、死という苦しみの解決方法が、死を無視することであるはずがない。火事を消すには、そこから目をそらすのではなく、向き合わなければいけないように、死をなんとかしようとするのであれば、死に向き合わなければいけない。

森田童子は死ななかった。

若き日々にこれだけ死を意識していた彼女は、2018年に心不全で65年の生涯を閉じるまで、生ききったのである。

日本は自殺者が多い国だ。コロナの影響を受ける前から多かった。これにはさまざまな理由があると言われているが、私が思う理由の一つは、死を意識”しないようにしている”ことだと思う。

自殺の方法の一つとして、駅のホームで電車の前に飛び出るというものがある。実際に見たことがあるわけではないが、この自殺は、山奥に行き、ロープで首をつることによる自殺とは、質の違うものであるように感じる。

後者に比べて前者は、より衝動的であるように感じるのだ。言い方は悪いかもしれないが、”なんとなく”死んでいるような気がするのだ。

このような現象が起きるのは、死を意識していないからだと思う。普段から死を強烈に意識していたのならば、”なんとなく”死ぬことなどできないはずだ。”なんとなく”ラーメン屋に立ち寄ることができるのは、それまでその店を意識していなかったからである。

これは大いなる逆説である。

自殺で死なないためには、死を強烈に意識する必要があるのだ。死とは何なのか。死ぬとはどういうことなのか。何をすれば自分は死ぬのか。こういった問いから目をそむけず、日々立ち向かっていれば、ある日の気分でふらっと死ぬようなことはないはずだ。

現代人は死を隠しすぎている。人生をあきらめているのにも関わらず、その先に絶対に見えているはずの死の話は一切しない。まるで、腫れ物に触るかのように死を扱っている。

しかし、触らないからと言って、腫れ物が治る保証はない。目を背けているうちに取り返しのつかない大きさにまで肥大化してしまう可能性もある。本当に治そうと思うのならば、向き合わなければいけない。

もちろん、今まさに、絶望の淵にある人に死の話をするのは危険だと思う。それは単なる自殺ほう助である。私が言いたいのは、絶望に落ちきったときに初めて死を意識し始めるのでは遅すぎるということである。

今、普通に生きており、死のことなど考えたくもないと思っている人こそ、死を意識しなければならないのだ。

私はいつ死ぬだろう。どこで死ぬだろう。どうやって死ぬだろう。どんな顔で死ぬだろう。

そんな問いに真剣に向き合えば、あなたは”なんとなく”死ぬことはなくなる。

そして、”なんとなく”生きることもなくなる。

死を意識することで、今ここにある生が浮き出て来るからである。生きていることが具体性を帯び、確固たる事実として目の前に現れてくる。つまり、本当の意味で生きられるようになるのだ。

死を思うゆえに、生きられるのだ。

ゴールを見据えているからこそ、「前」に進むことができるのだ。


終わり



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