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「朝飯前」と「朝活」〜モーニングルーティンに見る時代〜

「そんなの朝飯前さ!」

と言えばそれは、対象の物事が、朝食を食べる前のわずかな時間でもできてしまうほど非常に簡単に遂行可能であるということを指している。

しかしながら、ライフスタイルというのは時代と共に変化していく。

最近ではモーニングルーティンなどという言葉で表される、朝起きてからの一連の作業習慣も、「朝飯前」という表現ができた時代から現代までの時間の流れの中で、大きく変化してきたことだろう。

例えば、サザエさんのように3世代が一緒に暮らし、毎朝大人数の朝食を作る朝と、ワンルーム一人暮らしでプロテインを水に溶いて飲むだけの朝。

ヒゲを剃り、髪の毛を整え、ビシッとスーツに腕を通して出勤する朝と、寝間着のままパソコンを開いて勤怠ボタンを押すだけの朝。

自分の祖父母世代と比べても、これだけの差がある。

このような異なった生活においては、「朝飯前」という言葉の意味も当然変わってくるはずだ。

サザエさんの家で家族全員分の朝食を作るフネさんやサザエさんの「朝飯前」は非常に忙しい。

しかももっと言えば、それは、その日の朝だけで完結しているものでも無い。

献立を考えたり、下ごしらえすることを考慮に入れれば、前日などからその「朝飯前」は始まっていると言える。

このような生活において、フネさんたちの目線から見る「朝飯前」にできることというのは、その言葉の定義通り、非常に簡単にできることだけを指すだろう。

これも作って、あれも運んで、と忙しくしている中でも、片手間でチョチョイとできるものでなければいけない。

翻って、朝はプロテインのみ、という場合を考えよう。

この場合、前日から準備をしておく必要が無いことは言うまでもない。

調理も皆無であると言って良いだろう。

はっきり言って朝”飯”という言葉に値するかどうかさえ怪しい食事だが、そこには目を瞑るとする。

この場合の「朝飯前」は、本人の努力次第でかなり拡張できる余地がある。

そもそも「朝飯前」に行っていることが極端に少ないため、その時間がどのような忙しさになるかは、本人の時間管理能力次第となる。

1時間早く起きれば、その時間を丸々費やして何かに打ち込むことも可能だ。

つまり、このような生活の場合、ある物事が「朝飯前」になるかどうかはその人の努力次第であり、必ずしもそれが非常に簡単な作業である必要は無いということになる。

このように「朝飯前」という言葉の定義が破綻しかかっている現代において、それに取って代わるようにして流行りだした言葉がある。

「朝活」だ。

昨今、一人暮らしや核家族世帯が増えた。

また、それに加えて、働き方改革とコロナ禍が腕を組んで日本列島を蹂躙し、縦断した。

その結果残ったものが、自分以外の朝食を作らなくて良いし、身なりを整えて出勤する必要も無いというモーニングルーティンである。

そこには、かつて「朝飯前」という慣用句に滲んでいた、朝が大変なものであるという前提は残っていない。

朝は人間にとって忙しいものではなくなった。

その、新たに獲得した余暇とも言える隙間に、すかさず生産性をねじ込もうという活動が「朝活」なのだ。

「朝飯前」に何をするのかは、私達一人ひとりの手に委ねられた。

しかしこれは、何も「朝飯前」に限った話しではない。

「夕飯前」や「昼食後」に何をするか。

そもそも、それらの時間を規定している仕事をどのように選択するか。

ひいては人生そのものについても、これまでの人類に比べれば、自分なりに選択できる部分が大きくなってきている。

ある物事が「朝飯前」かどうかを受動的に判断するだけの時代は終わり、代わりに、その物事を「朝活」として実行するかどうかを能動的に決断する時代に入った。

「朝飯前」と「朝活」という言葉の栄枯盛衰にそのような時代の変化を見る。

最後までお読みいただき、ありがとうございました!