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花の旅

   私は定年後には悠々自適の生活を楽しむつもりでいたが、退職して一年半後に肺がんと宣告された。幸い、手術と抗がん剤治療の後、再発することなく一年が過ぎた。
   といっても、私のがんはかなりたちが悪かったようで、この先どうなるかは、まさに神のみぞ知ると言ってよい。
   私は元気なうちに、学生時代の友人を訪ねる旅に出ようと思った。
    これはその時の旅日記である。今から五年前のことだ。
 

東大寺


    JR奈良線の車内は意外に混んでいた。四月の第二週目の日曜日、春休みも終わり、桜で賑わう季節もそろそろ落ち着きを取り戻す頃だろうと旅に出たが、どうやら初日から当てが外れたようだ。

 車内には外国人も多い。車内放送では、英語の他に、中国語と韓国語も聞こえてくる。横浜でも英語の車内放送は当たり前だが、中国語と韓国語まで揃うのは珍しい。さすがに世界の観光地だ。
    電車は狭い住宅の間を縫うように走って行く。線路脇の家まで、ちょっと手を伸ばせば届きそうな近さだ。

    神奈川でもこんな路線は多い。京浜急行もその一つだ。退職前は、満員電車の中から、高架橋と同じ高さの目線にあるマンションの部屋の中を、カーテン越しに見るとはなしに眺めながら通ったものだ。
    部屋の様子がいつもと違うと、ついそこの住人の生活を、あれこれ詮索したくなる。電車が狭い住宅街を縫うように走らざるを得ないのは、狭い国土の中で、都会にだけ人が集まる日本の宿命なのかも知れない。

 奈良線の電車はしばらくすると、田園地帯へと視界が開けた。まだ田んぼに水はなかったが、畑には麦が青々と育っていた。所々、黄色い菜の花が、鮮やかに春の趣を添えている。
     今年の春は、たいそう早かった。春の主役のソメイヨシノはとっくに退場していた。葉桜にわずかばかりの花を残す木々が、時折、目に入ってくる程度だ。今、満開の花をつけているのは、しだれ桜だ。濃い色、薄い色のピンクが競い合うように華やかだ。

   雑木林には竹林が目立った。京都は全国でも有数の竹林面積を誇っているという。たしかに多い。竹の需要が減った今では、管理が行き届かず、放置された竹林が問題になっているとも聞く。
    竹は成長が早く、隣接する雑木林にどんどん進出していくのだそうだ。筍がいっぱい採れるならそれでも良いではないかというと、そう単純な話ではないらしい。竹は地下茎を横に伸ばしていくので、土をしっかりと掴まえる杭の役割が弱く、急傾斜地ではがけ崩れが起こりやすくなるというのだ。
    竹林に限らず、放置され、荒廃した森林は、今、日本のあちこちで大きな問題になっている。
    いろいろと問題を抱えている竹林だが、今、林の中は筍が真っ盛りのはずだ。旬の筍は、採れ立てなら生でも食べられる。柔らかくほんのりと甘い食感がなかなかよい。生の筍は無理でも、この旅行中には、シャキッとした筍料理を、きっとどこかで味わえるだろう。今からその期待に胸が膨らむ。

   そんなとりとめのないことを考えているうちに、電車は奈良駅に到着した。ほんの一時間足らずだが、在来線ならではの、地域の匂いが漂う旅だった。
    奈良駅では、大学時代の先輩が出迎えに来てくれているはずだった。改札口にはそれほど人がいない。すぐに見つけられるだろうと思ったが、それらしき人は見当たらなかった。前回、ゼミの集まりでお会いしてから、まだせいぜい五、六年だろう。お互いに少し老けたとしても、見分けがつかない程ではないはずだ。周辺を一回りしてから、また改札口に戻ってみると、柱の陰にそれらしき女性が立っていた。近づいていくと、その女性もようやく気がついたようだ。

「すいません、お待たせしました」

「こちらこそ、ごめんなさい。マスクにメガネ姿だったから、気がつかなくて。ひょっとしてJRじゃなくて、近鉄の方かと思ったわ」

 もしかしたら、先輩には私がわからないかもしれないという不安は的中した。原因は私のマスクとメガネではないだろう。きっと髪の毛のせいなのだ。

「今日はお忙しいのに、ご案内いただき、ありがとうございます」

「こちらこそ、ゆっくりできなくてごめんなさい」

 運の悪いことに、今日、先輩は急遽、横浜にいる子供の所に行かなければならない用事ができてしまい、夕方の新幹線に乗るというのだ。入れ違いにはなるが、すれ違わなかったのはありがたい。

「これからお昼を食べて、その後、東大寺に行こうと思うんだけど、いいかしら。大仏殿は混んでいるでしょうから、あまり人のいない二月堂の方に行ってみようと思っているの」

「はい、お任せします。ありがとうございます」 

 私は先輩に案内してもらえるだけで十分だった。二月堂には、まだ行ったことがない。

「お昼はこの近くなので歩いて行きましょう。近くにもう一軒、有名なお店もあるんだけど、そっちよりおいしいので」

 その店は、料亭風の立派な店構えだった。和服姿の店員について行くと、竹庭に面した側が全面ガラス張りの、広い部屋に案内された。そこに、四人掛けのテーブル席が五つ、六つ並んでいる。その内の一つに、ガラス窓に向かって、並んで箸が置いてあった。庭を眺めるにはたしかにそのほうが、都合が良い。
    先輩は一瞬ためらったが、そのまま二人で座った。私たちの他に客はいなかった。観光地の奈良で、しかも日曜日に、この静寂はありがたい。

 再会を祝してビールで乾杯すると、すぐに先付けが運ばれてきた。筍の和え物だった。期待通りの料理に思わず顔がほころぶ。次々と運ばれてくる会席料理に舌鼓を打ちながら、お互いの近況を報告し合う。
    話は、この年代が集まると必ずと言っていいほど出る、自分と家族の健康状態や親の介護の話から始まった。私は肺がんになったことを話した。
    先輩は驚いて私を見た。その時、口には出さなかったが、私がウィグを付けていることもわかっただろう。そして、改札口でのすれ違いの原因も。
    それでも、会話は暗い話題に引きずられることもなく弾んだ。そこは久しぶりに会う友人同士だ。先輩とは言っても一年しか違わない。大学時代の懐かしい思い出話に、いともたやすくお互いの年齢を忘れることができた。

   私はこの春、四十年に及ぶ勤め人暮らしに見切りをつけ、新しい人生に踏み出そうとしていた。これを機に、学生時代の友人を訪ね、併せて、念願だった京都の満開の桜を観に、旅に出たのだった。
   しかし、奈良に来て、こうして旧交を温めることができただけで、すでに目的が達せられたように感じたのだった。

  昼食に思いのほか時間を取られたので、店を出たのは三時過ぎになった。東大寺に行く途中、公園の中を歩いて行くと、鹿の姿が目に入った。奈良は、中学の修学旅行の時に来て以来だから、もう半世紀も前になる。鹿を見るまで、ここが奈良公園だとは気がつかなかった。
    人懐こく観光客に煎餅をねだる風景は、今も昔も変らない。しかし、最近の鹿は観光客慣れしたせいか、以前よりずうずうしくなったようだ。
    先日、ニュースでは、鹿に噛まれる観光客が増えていると報じていた。煎餅をじらせて、なかなか与えようとしない観光客が、被害に合うそうだ。そうだとすると、マナーが悪くなったのは、鹿ではなく観光客のほうなのだろう。
    ここでは国の天然記念物として大切に保護されている鹿だが、神奈川の丹沢では、木の幹まで食い荒らす有害鳥獣として、毎年、二千頭以上も撃ち殺されている。それでも被害は減らないという。農業被害も深刻だ。人と鹿との共存は、ここ奈良以外では難しいのだろうか。

   おまえは、ここで生まれて良かったな。
    近づいてきた鹿に、親しげに話しかけたが、私が煎餅を持っていないとわかると、鹿はおじぎもせずにさっさと行ってしまった。

その時、

 「奈良でこんなに人が多いのを見るのは初めて」

 と、いかにも驚いた表情で先輩が言った。前方を見ると、東大寺の参道は、いつの間にか、観光客でびっしりと埋め尽くされている。奈良に長い間住んでいる先輩でも驚くほど、外国人観光客が増えているからなのだろう。初夏のような気候に、カラフルな半袖姿が目立つ。波のように押し寄せる外国人を見ていると、ここはサンフランシスコかと思うほどだ。

    喧騒から逃げるように戒壇堂(かいだんどう)に向かう小道に出ると、うそのように人が消えた。先輩はそこの四天王像が気に入っているのだという。

「じ・ぞう・こう・た、って言うのよ」 

    先輩は仏像を見て回りながらこう言った。私には何のことか、意味がわからなかった。 

「左から順番に、持国天(じこくてん)・増長天(ぞうちょうてん)・広目天(こうもくてん)・多聞天(たもんてん)と並んでいるでしょう。それで、持・増・広・多、って覚えるの」

 なるほど、これなら私にも覚えられそうだ。「地蔵買うた」と覚えるわけだ。 

「四天王は他にもいくつか見てきたけど、ここの四天王が一番立派よね。お顔が素敵なの」 

 私はこれまで四天王像を意識して、じっくり眺めたことはなかった。いや、四天王に限らず、他の仏像にも大して興味を持ったことはない。しかし、こうして時間をかけて一つひとつ丁寧に見ていくと、姿形や持ち物、顔の表情、物腰、足で踏みつけられた鬼たちの顔など、それぞれに違いがあっておもしろい。実に繊細かつ力強く表現されていて、いくら見ても飽きることがなかった。厳しい表情の顔をじっと見つめていると、こちらが睨みつけられているような気分になった。
    戒壇堂は、僧侶として守るべき戒律を、仏前に誓う儀式のための場所だそうだ。なぜ、そこに四天王がいるのだろう。全てを見通すような鋭い目で、僧侶のうそを見抜くためか。僧侶でなくても、その目は怖い。

    戒壇堂を出て二月堂へも、混んだ通りを避けて裏道を歩いた。白壁や竹垣に囲まれた細い石畳のなだらかな坂を登っていく。観光客の姿はほとんどない。しばらく行くと、坂の向こうに、お水取りで有名な二月堂が見えてきた。ふと見ると、すぐ横に、一本の満開のしだれ桜が、まるで私たちを出迎えるように佇んでいた。

 回廊に登ると、眼下に奈良の街並みが広がった。目の前の大仏殿の大屋根が、小ぶりな街の一角を覆い隠している景色が、いかにも奈良らしい。
    回廊は思ったより狭かった。高さも意外に低い。お水取りでは、童子と呼ばれる大人たちが真っ赤に燃える松明をかざし、火の粉を撒き散らしながら、ここを駆け抜けるというから、想像以上の迫力に違いない。本来は、苦行を行う僧侶たちの道明かりとして焚かれるらしい。大きなものでは長さ八メートル、重さ七十キロはあるという。明かりにしてはあまりに巨大で、なんとも愉快だ。


醍醐寺


    桜は不思議な花だ。満開の華やかさとは対照的に、普段はおとなしく目立たない。花が咲いてようやくそこに桜があったのだと気がつく。膨らみかけた蕾が、春の訪れを予感させる。咲き始めは可憐だ。蕾の間にぽつりと咲いた小さな花に出会うと、思わず頬ずりをしたくなる。一輪また一輪と開く度に、新しい季節への期待感が広がっていく。

    花の一つひとつは控えめだが、一斉に咲くときの華やかさは豪華というほかはない。まるで雪洞のように大きな塊を作って咲く満開のソメイヨシノは、牡丹やアジサイの花を想わせる。大きく枝を張り、樹冠全体を花で覆いつくした老大木も見事だが、互いに枝と枝を絡ませて咲く満開の桜並木ほど、心浮き立たたせるものはない。樹下に酒宴を張る花見の醍醐味は、満開のソメイヨシノだからこそ味わえる。

    散り際の潔さは、昔から日本人の心を捉えてきた。花吹雪の中をそぞろ歩く時、命のはかなさを思わずにいられないのは、古人に限ったことではないだろう。川面に浮かぶ花筏の帯には、艶やかさと切なさが織り込まれている。

    今は、桜と言えばソメイヨシノだが、歴史的には江戸時代末期に作られた比較的新しい園芸品種らしい。有名な豊臣秀吉の「醍醐の花見」もソメイヨシノではなかった。
    その醍醐寺を始め京都で有名な桜の名所を観たいと、二ヶ月前から計画してきた花の旅だったが、季節の気紛れさには勝てなかった。京都は横浜より桜の時期が遅いと聞いていたので、もしかしたらと、わずかな望みを抱いて来たのだが、それも見事に打ち砕かれた。

    醍醐寺では、総門をくぐった先にあるはずの桜並木は新緑の並木に替わり、樹齢一八〇年と言われる大しだれ桜が、まるで柳のように青々と若葉を茂らせていた。
    秀吉が花見のために自ら設計したと言われる三宝院の庭の隅には、小さなしだれ桜がまばらに花をつけているだけだった。それでも一箇所、国宝の五重塔を背景に、見事な花ぶりのしだれ桜をカメラに収めることができたのは、幸運だったかもしれない。桜祭りのために張り巡らされた花見幕の鮮やかな赤が、淡いピンクの花に彩を添えていた。

    醍醐寺の花の主役は、八重桜に移っていた。霊宝館の庭に折り重なるように咲く濃いピンクの花房は、見る者を圧倒する。満開の重量感はソメイヨシノを遥かに凌ぐ。ソメイヨシノが酒宴の主役なら、八重桜はカメラの主役と言えるかもしれない。今流行の「インスタ映え」には、もってこいのスポットだろう。花の下では、若い中国人カップルが、時間をかけて、何度もスマートフォンのカメラを向けていた。
    もっとも、「花より団子」の花見客には、どちらでもよいだろう。近くの茶屋では、外国人観光客が花を眺めながら、抹茶のソフトクリームを頬張っていた。

    醍醐寺の本尊は、金堂の薬師如来坐像だ。脇侍には日光・月光菩薩立像が祀られている。さらに霊宝館には、国宝の薬師三尊像も安置されている。こちらのほうは、お堂の中と違って間近にお参りできるところが魅力だ。
    薬師如来は病気を治してくれる有難い仏様。大病を患った私には特別な存在だ。仏像の前で静かに手を合わせ、いつもより長い時間をかけ、心を込めて参拝した。


保津川下り


    保津峡もすでに葉桜だった。いつもならこの時期、両岸を華やかに彩るはずのヤマザクラは、新緑の木々の間で、申し訳なさそうにわずかな名残の花をつけている。昨日の寒さとは打って変わって、今日の渓谷は早くも初夏の赴きを見せていた。

    川下りの船は、嵐山に向かってゆっくりと進んで行く。頬を撫でる風が心地よい。穏やかな淵に淀む、深い緑色の水が眠気を誘う。透き通った水が浅瀬で水しぶきを上げる。三人の船頭さんが息を合わせて櫓を漕ぎ、棹を差し、舵を操りながら、狭い岩と岩の間を巧みにすり抜ける度に、乗客たちから歓声が上がる。そのほとんどが外国人だった。台湾からの観光客が多いと聞いていたが、飛び交う言葉は様々だ。言葉巧みに笑いを誘うはずの船頭さんも、乗客たちの反応の鈍さには苦笑いをしている。

    船頭ら心ひとつに櫓をこぎて
            棹に舵とる保津川くだり

     数少ない日本人観光客の一人が、偶然、私の隣に座った。若い女性の一人旅だった。たまたま休みが取れたので、今朝、東京から新幹線に飛び乗って、真っ先にここに来たという。嵐山が見たかったのだという。

「よく席が取れましたね」

 保津川下りの船は、早くから予約でいっぱいになる。私もこの船の予約だけは、二ヶ月前に旅行代理店に頼んでいた。

「はい。たまたま一人分が空いていたので」

 なんと運のよい人だろう。女性は白い歯を見せた。ベレー帽のようなつばのない帽子から、茶色の短い髪がはみ出ている。薄い色のサングラスの奥で、大きな瞳が笑っていた。

「それはラッキーでしたね。トロッコ列車にも乗れたのですか」

「はい。当日乗車券が買えたので」

 川下りの観光客は、たいてい嵯峨嵐山からトロッコ列車に乗って亀岡まで行き、そこから船に乗る。保津峡を左右に眺めながらゆっくりと走るトロッコ列車も、観光客には人気がある。特に春の桜と秋の紅葉の季節は、なかなか席が取れない。そのため、私は早くからインターネットで予約をしていたのだった。同じ一人旅でも、こうも違うものだろうか。たまたま休みが取れたからとはいえ、この女性の行き当たりばったりの行動には驚かされる。 

    私も若いころは、そんな風だった。学生時代は、アルバイトでお金を貯めては、一人旅を楽しんでいた。出発前に一応予定は立てていたが、宿泊先のユースホステルで気の合う人と出会ったりすると、旅は道連れとばかりに、しばしば行き先を変更していた。

    そんな気楽な一人旅も昔の話だ。今回は、長い勤め人暮らしに終止符を打ち、これからの人生を楽しもうと企画した旅だった。
    しかし、考えてみると、この女性のようにもっと気楽な旅にしてもよかったかもしれない。現役時代と違って休暇を取る必要もなく、毎日が自由なのだ。きっちり予定を決めなくても、行き当たりばったり、気ままな旅行もできただろう。
    とはいえ、長い間に身に染みついた習慣は、すぐに変えられるものではない。時間に追われ、期限に追われて、計画を練り、一つひとつ実行に移す。そんな勤め人の癖が、何をやるにも、前もって細かく予定を立てずにはいられなくしたのだろう。
    しかも、今回は、友人と会うのが第一目的だ。約束の日時をそう簡単に変えるわけにはいかない。気楽な旅はまたの機会としよう。 


天龍寺



    若い女性とは嵐山の渡月橋で別れて、私は天龍寺に向かった。途中の通りは、観光客でごった返していた。ここでも大半は外国人だ。来る前から、京都は外国人でいっぱいだと聞いてはいたが、この多さには正直、面食らった。
    横浜でも、中華街やみなとみらい周辺では、外国人をよく見かける。伊勢佐木町通りを歩いていると、英語や中国語、韓国語のほかに、ベトナム語やロシア語、スペイン語、中にはどこの国かわからない言葉も聞こえてくる。外国人には慣れているはずの私でも、京都のこの賑わいは想像を絶していた。

    つい最近まで、外国人観光客の「爆買い」に、どちらかと言えば眉をひそめていたことを思えば、多くの外国人に日本の自然や文化を理解してもらうことは、よいことではないか。観光収入にばかり目を向けるのではなく、お互いの文化を理解し合うことの意義は大きいはずだ。
    そう思いながら歩いていると、行き交う観光客の間に、ちらほらと着物姿が目についた。このところ、若い世代を中心に和服への関心が高まっていると聞く。京都に和服はよく似合う。
    ところが、彼女たちが話している言葉は、日本語ではなかった。中国や韓国の若い女性が日本の着物を着て、観光地を闊歩しているのだ。同じ肌の色のせいか、一見したところ日本人と見分けがつかない。これも文化交流の現われかと好ましく眺めていたが、京都の友人にその話をすると、外国人観光客が着物姿で行くと、観光名所の入場料が無料になるからだというのだ。日本の商魂の逞しさを称えるべきか、外国人観光客の趣味と実益を兼ねた合理主義を褒めるべきか、どちらにしても日本文化の理解につながるなら好ましいことだろう。すれ違う着物姿の女性の美しさは、日本人も外国人も変わらない。

    大方丈と呼ばれる大きな建物の縁側に座って、天龍寺の庭園を眺めていると、観光客の喧騒の中にあっても、不思議と心が落ち着いてくる。白砂の上に引かれた幾本もの筋が、あたかも波のように池に向かい、淡い緑の芝を境に、濃い緑の池の水と接している。夢窓国師が座禅のために作った庭と言われるだけに、凡人の私でも、そこに座っているだけで修行の一つになるのだろうか。目を閉じ、耳を澄ませ、鶯の声を聞いているうちに、まるで無の境地に達したかのような錯覚に陥るのだった。
    京都に来て良かった。 
    目を開けると、首からカメラを提げ、幼児の手を引く若い外国人女性の姿が飛び込んできた。


京会席

 
    花には団子がつきものだ。今回の旅には桜見物のほかにもう一つ、本格的な京会席料理を楽しみたいという目的もあった。私の兄は銀座で板前をやっているが、その店は京都のある店から暖簾分けしたのだそうだ。それで以前から、本場の京料理を味わってみたいと思っていたのだ。

    京都には老舗の割烹や料亭がひしめき合っているが、「一見さんお断り」のイメージがつきまとい、私にはどれも敷居が高かった。そこで、京都の友人に、一人でも入れる適当な店がないか教えてもらい、電話で予約したのがひと月前のことだった。

    京都の友人とは、その前日、気楽な居酒屋で飲んだ。居酒屋とはいっても、京都に長く住む友人が選んだ店だけあって、一流の料理人が揃う、確かな味の店だった。元は焼鳥屋だったらしいが、今は新鮮な海の幸や旬の食材を使った料理を出している。
   話が弾み、酔いも回って、そろそろお開きにしようかという時、突然、友人の携帯電話が鳴った。彼は定年を迎えた後の第二の職場で今も働いているが、それほど忙しくはないらしい。この電話も職場からではないだろう。そんなことを考えていると、

「上さんからなんだけど、明日行く店よりもっといい店があるから、そっちにしたらどうかって言うんだ。俺は行ったことがない店だけど、どうする?」

 と、友人が聞いた。いきなり言われても返答に困る。今からキャンセルできるだろうか。キャンセル料も心配だ。私が迷っているのを見て、友人は、

「上さんはいろいろサークルに入っていて、仲間同士で結構あちこち行っているんだ。明日予約している店にも行ったことがあるらしいけど、今電話してきた店の方が絶対においしいと言うんだ。明日のことだから、キャンセル料も取られないと思うけどなあ」

 と言った。友人は奥方に、今朝、話しをしたらしい。その奥方とは、結婚式に呼ばれた時にお会いしただけだ。もう三十年以上も前のことになる。それでも、わざわざこうして私のために電話をしてきてくれたのだ。私は急遽、店を替えることにした。幸い予約も取れ、前の店からはキャンセル料も請求されずにすんだ。

「これでおまえの株がまた上がるな」

    どうやら私は奥方から気に入られていたらしい。私はおぼろげな奥方の顔を思い出しながら、学生時代の友と再開できた幸せを、改めて噛み締めていた。

「おまえ、がんばって生きろよ。おれはショックだったぞ」

 別れ際に、友人が言った。有難かった。

     翌日の夕方、予約時間の六時ぴったりに、私は紹介された店に着いた。格子戸の前には落ち着いた茶色の暖簾がかかり、左右には竹と生け花の飾りが置いてある。灯籠の淡い光が足元を照らし、いかにも京都らしい風情が漂っていた。
    私は期待に胸膨らませながら、格子戸を開けた。案内されたカウンター席には、六人分の盆が用意されていた。奥には座敷もあったが、一人客はここに通される。私が最初の客だった。調理場は壁の向こう側にあるらしく、半間ほどの出入口にある暖簾を分けて、仲居さんがおしぼりを運んできた。着物姿が美しい。

「お飲み物は何になさいますか」

    と尋ねられて、いつもならビールを頼むところだが、せっかくの京料理を楽しむのにお腹がいっぱいになってはと思い、料理に合いそうな京都の地酒を選んでもらった。
    入れ替わりに、また別の女性が長い柄のついたお銚子と小さな盃を持って入ってきた。まだ若いが、どことなく貫禄がある。

 「女将さんですか」 

    と尋ねると、にっこり頷いた。ふっくらとした丸顔の、まるで福の神のような笑顔に心が癒される。

「これは、この店でしか出していないお酒です。どうぞ、サービスですから」

   と微笑みながら、女将は優雅な手つきで、ゆっくりとお銚子を傾けた。
    料理は若い板前が運んできた。一皿一皿確かめるように、中身の説明をする。

「修行中ですか」

    と聞くと、この四月に入ったばかりだという。

「覚えるのが大変でしょう」

    と言うと、照れくさそうに頭を掻いた。
    しばらくすると、観光客らしい若い女性が、二人で入ってきた。奥に行くのかと思ったら、私の隣のカウンター席に案内された。私はてっきり日本人だと思い、あいさつ代わりに、

「お先にいただいています」

 と言うと、二人は怪訝そうな顔をして私を見ながら、小声で何か言った。きっと、見知らぬオヤジに警戒したのだろう。余計なことを言ってしまったと後悔した。ところが、よく聴くと、二人の会話は韓国語だった。どうやら、私の言葉が通じなかったようだ。小声は、それを詫びていたらしい。ホッとした。

    それにしても、こんなお店にも外国人観光客が来るのかと驚いた。そのことを女将に尋ねると、

「外国の方は、一見さんはお断りしているのですが、ホテルからの紹介の方はお受けしています。私どもは外国語を話せませんので、何かトラブルがあると困りますから。それで、ホテルでよく説明をしていただいてから、来ていただいております」

 なるほど、と納得した。
   ほどなくして、別の客がカウンターの一番奥に案内された。男女の二人連れだった。今度は中国語だ。残る一席は、七時を回った頃に埋まった。日本語を話している。結局、六席のうち、二席だけが日本人だった。

 和食は、数年前に、ユネスコの無形文化遺産に登録されている。日本の伝統的な食文化が世界に評価されたものだ。お寿司は以前から外国人にも人気があったが、ごはんと汁物、煮物・焼物の三品を合わせた「一汁三菜」が基本の和食は、低カロリーでヘルシーな料理として、近年、ますます人気を高めている。見た目にも綺麗に盛り合わせた会席料理は、日本を訪れる外国人にとって、一度は味わってみたい日本文化の一つなのだろう。

 私は思い切って、

「和食は好きですか」

 と、隣の女性に、今度は英語で聞いてみた。すると、

「大好きです」

 と、日本語が返ってきたのには驚いた。

「日本語がわかるの?」

と聞くと、

「ちょっと」

    と、はにかんだ。たとえ片言でも、日本語で話してくれるのはうれしい。

    料理は期待した以上だった。旬の食材をふんだんに使った料理を、私は心ゆくまで堪能した。女将や仲居さんのもてなしも素晴らしく、これまで敷居が高かった京都の料理屋さんが、急に親しく感じた。
    昨日、友人の奥方のアドバイスに従って、この店に替えてよかったとしみじみ思う。
    こうして、京都の最後の夜は、思い出深く、ゆっくりと更けていった。 


仁和寺

   
    京都の花の旅は、仁和寺が最後となる。遅咲きの桜として有名な御室桜は、仁王門から金堂に真っ直ぐに伸びる参道の真ん中あたり、中門をくぐってすぐ左にあった。御室桜は、八重に咲く桜として有名だ。背丈が低く、幾重にも重なる花びらが、ちょうど目の高さで見られるところが人気を呼んでいる。例年なら今頃、四月の中旬に満開を迎えている。今回の旅で、私が最も期待していた場所だった。
    しかし、私の期待はここでも見事に裏切られた。曇天のためか、枯れたように見える葉の間に、ところどころ綿のように散らばっている白い花びらが哀れに見える。しかも、そのほとんどが一重だった。同じ八重桜でも醍醐寺のそれとはまるで違う。八重に咲かない八重桜など、あるのだろうか。

    この疑問は、後日、旅行から戻って、録画していたテレビ番組を観た時に解消された。御室桜は樹齢三〇〇年とも言われるが、人間と同じように、年を重ねるにつれて弱ってくる。すると虫やコケがついたり、病気にかかりやすくなったりするそうだ。それが、近年、八重だった花のほとんどが、一重に変ってしまった理由だという。
    その八重を復活させる試みも進んでいるらしい。二年かけてようやく咲いた八重の花びらに、満面の笑みを浮かべる技術者と僧侶の姿が印象的だった。

 満開の御室桜は観ることができなかったが、まだ多少なりとも花が残っているだけでも幸せだ、そう気を取り直して、私は伽藍の一番奥にある金堂まで、途中、五重塔や経蔵などの建物を眺めながら歩いた。
    広々とした境内には、新緑の林の中に、赤や白のツツジの花が点在していた。ふと見ると、人気のない金堂の脇に、ひっそりと淡いピンクの花が咲いているのに気がついた。近づいてみると、それはシャクナゲだった。

「花は、桜だけではないのよ」

 とでも言っているかのように、静かに咲いている。私はひとり可憐に咲くシャクナゲに、心を癒された。   
    これからの人生、私もこのシャクナゲのように、人知れずとも凛として、新しい花を咲かせたいものだ。

    仁和寺は真言宗の寺である。霊宝館には、仁和寺を開いた宇多天皇や真言宗の開祖、弘法大師・空海に関する資料など、さまざまな宝物が収蔵されている。
    その中に、仏の悟りの世界を図であらわすという曼荼羅も展示されていた。これまで仏像には関心がなかった私だから、この時も、曼荼羅にはさして興味を引かれることもなく、その前を通り過ぎてしまった。

    帰ってから、録画したビデオの中に曼荼羅を紹介する番組があったことを思いだし、再生してみた。六回シリーズの第一回目で、初心者にも分かりやすく解説している。御室桜の録画番組と同様に、このビデオも旅行の前に観ておけばよかったと後悔した。
    中でも興味を引いたのは、精神科医のユングが、患者の治療方法の一つとして曼荼羅を活用していたという話だった。難しいことはわからなくても、曼荼羅を見たり、自分で書いたりしていると、心が落ち着いてくるのだろう。とかく、物質的な豊かさの影で、心の平穏を失いがちな現代社会にあって、曼荼羅の持つ不思議な力が、見直されているのかもしれない。

 霊宝館には『医心方(いしんぽう)』という、千年以上も前に書かれた日本最古の医学書の写本も展示されていた。仁和寺を紹介したビデオにもその一部が取り上げられている。おもしろいのは、しゃっくりの治し方だった。いくつかある中で、息を止める方法は、今でも普通にやられている。

    私は抗がん剤の副作用でしゃくりが止まらなくなった時に、逆深呼吸という気功法の一つを試してみたことを思い出した。看護師さんからは、しゃっくりを止める薬もあると言われたが、薬嫌いな私は、この程度のことで薬を飲みたくなかったのだ。
    普通なら息を吸う時にお腹を膨らませるが、逆深呼吸では、お腹をへこませながら息を吸うのだ。吸ってから五秒間、息を止める。その後、お腹を膨らませながら息を吐く。
    逆深呼吸は、本来は気を体内に取り込み、健康を増進させるための気功法だが、不思議なことに、この方法でしゃっくりはすぐに止まった。この気功法が『医心方』と関係があるかどうかわからないが、番組を観て、しゃっくりの止め方が、昔も今もさほど変らないと知って、なんともおかしかった。     ところで、『医心方』には、がんの治し方も書いてあるのだろうか。がんは四千年以上も前から人類を苦しめてきた病気だ。その病気の記述があっても不思議はないが、つい最近まで不治の病と恐れられてきたがんの治し方までは、書かれていないのかもしれない。
    もしも私が千年前に生まれたとしたら、がんを患った私には生きる術がなかっただろう。そう思うと、私の命を救ってくれた現代医学に、心から感謝せずにはいられなかった。
    もっとも、平均寿命が今より遥かに低かった時代、六十歳まで生き延びること自体が至難の業だったに違いない。そう考えると、人生八十年の現代にあっても、無事に還暦を迎えられたことには素直に喜ばなければならない。


別府温泉 

 
    北九州の小倉には、友人の夫婦がいる。二人とも学生時代の友達で、卒業するとすぐに結婚したのだ。しばらくご無沙汰していたこともあって、この機会に、二人にも会いたいと思った。九州では、桜の季節はとっくに過ぎてはいるだろうが、思い切って、京都から足を伸ばすことにした。電話をするとたいそう喜んでくれた。

 小倉駅に着くと、友人が新幹線の改札口まで出向かいに来てくれていた。ホテルのロビーで待ち合わせることになっていたので、私は危うく通り過ぎるところだった。久しぶりに見る友人の顔は、すぐにはわからなかった。お互いに年を取った。
    彼は近くの居酒屋に私を案内してくれた。できたばかりらしく、店内は明るく、清潔そうだった。真新しい四畳半ほどの個室に、向かい合って座った。奥方は明日、別府まで同行するという。小倉にはこれと言って観るところもないので、三人で別府の地獄めぐりはどうかと誘ってくれたのだ。そのため彼は、わざわざ休みを取ってくれていた。
    彼はビールを注文した。学生時代には日本酒を良く飲んでいたが、このごろは、もっぱらプリン体・糖質ゼロのビールにしているという。京都の友人も日本酒党だったが、家では焼酎を飲んでいると言っていた。二人ともタバコは止めたそうだ。あのヘビースモーカーたちが、良く止められたものだと感心する。六十歳を過ぎると、健康への配慮は欠かせない。この居酒屋も禁煙で助かった。 
    懐かしい友との再会は、時間を忘れさせる。積もる話は尽きないが、明朝の電車の時間もあり、早めに引き上げることにした。
    ホテルに入り、シャワーを浴びると猛烈な睡魔に襲われた。旅も四日目、実に良く乗り、良く歩き、良く食べ、良く飲む旅だった。そろそろ疲れが溜まってきても不思議はない。
 
    翌朝、別府を越えて湯布院まで行く特別列車は、ほぼ満席だった。例によって外国人観光客が多い。彼は列車の最前列を予約していた。ガラス窓の前方には運転席と同じ景色が通り過ぎていく。友人夫婦とボックス席に座り、朝から缶ビールを開ける。昔から旅の楽しみは、車内で飲む酒と相場が決まっている。隣に座った外国人観光客には申し訳ないが、三人で盛り上がった。

 別府に着くと、まず昼食だ。彼は、『地獄蒸し』と呼ばれる名物料理の店を予約してくれていた。温泉の噴気を利用し、高温の蒸気で魚介類や肉類を一気に蒸し上げる、温泉地ならではの料理だ。テーブルにつくとまたビールで乾杯。それにしても良く飲む旅だ。奥方も彼に負けず、学生時代から酒が強かった。こうして三人で飲んでいるとあの時代に戻ったような気分になる。今日はまた初夏のような暑さだった。ビールがうまいわけだ。
    別府の地獄めぐりは、学生時代の一人旅で来たことがある。エメラルドグリーンの海地獄を見て、記憶が蘇った。しかし、後の地獄はほとんど覚えていない。池の周りの立派な柵は、以前にはなかったような気もするが、自信はない。

    地獄めぐりは近場だけで早々に切り上げ、日帰り温泉でゆっくりと汗を流した後、夕方早くからまた飲むことにした。名物の関さばの店があるという。ところが、彼がお目当てにしていた店に行ってみると、閉まっていた。なんと、倒産してしまったようだ。仕方なく、別の店を探す。三軒目に覗いた店には、残念なことに関さばの入荷はなかったが、同じく名物の関あじがあった。ようやくそこに落ち着く。そしてまたビールで乾杯。
    旅の最後の夜も、友と語らい、酒を酌み交わしながら暮れていく。いい旅だった。もう一度、友情に乾杯。

 

心の旅

 今回私は、訪ねた友人たちに自分の病気のことを包み隠さず話した。一昨年の暮れに見つかった肺がんは、大細胞がんという非常に稀な、悪性度の高い、危険ながんだったこと、五年生存率が十パーセント以下であること、手術と抗がん剤治療を受け、今は毎月検査が必要な経過観察中の身であることを。
    タバコを吸わない私がなぜと、友人たちはみなショックを受けた。決して驚かすつもりはなかったが、それも当然だろう。当の本人が一番驚いたのだから。同時に、今は回復して元気を取り戻していることを、心から喜んでくれた。友を持つことのありがたさが身にしみた。

 友人たちはみな、私がこの三月で完全にリタイアしたことを不思議に思っていた。六十三歳はまだまだ十分働ける年だからだ。しかし、その疑問は、私の話を聞いて解消したようだ。その代わり、今回の訪問の目的が、単に旧交を温めるためではなかったのではないかという、新たな疑問を抱かせてしまったかもしれない。それは、もしかしたら、この先いつ死んでもいいようにと、思い出づくりのために来たのではないかという疑問だ。 
    しかし、私自身は、そんなつもりは全くない。自分では、がんは完全に治っていると信じているからだ。今度の旅は、思い出づくりではなく、桜の季節に懐かしい友を訪ねることで、自ら新しい門出を祝う旅にしたいと思ったのだ。

    今回は十分にその目的を達することができた。さらに、これまであまり関心のなかった仏像たちと向き合い、静かに祈りを捧げることで、自分自身を見つめ直す良い機会ともなった。
    がんを経験したことで、私は、今日一日を大切に生きていこうと思うようになった。そして、一日を無事に過ごせたことに感謝することができる。今は、私を支えてくれる家族や友人や社会に、素直に「ありがとう」と言うことができる。

    今回の旅で、花を愛で、友と語らい、神仏に祈ることを通じて、素直な感謝の気持ちをさらに深めることができた。花の旅は、心の旅でもあったのだ。
    私を温かく迎えてくれた友人たちと、生きていることの喜びを一層深めてくれた美しい花々に、あらためて感謝の気持ちを捧げたい。

    なつかしき友と語らいゆくすえを
                     花に誓いて今日を旅する

   

 

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