小説「ある日の”未来”」第8話
「エネルギー」
勉強に疲れた未来だったが、ばあにゃのくれた特大の焼き芋を食べて、元気が戻ったようだ。
「ぼく、遊びに行ってくるね!」
そう言って走り出した後ろ姿に、ばあにゃは、
「車に気をつけるんだよ!」
と声をかけた。
太陽はいくらか西に傾きかけてはいたが、まだ強い日差しを容赦なく降り注いでいる。道路から反射する熱にも炙られて、未来はたちまち大粒の汗をかいた。
まだ6月なのに、なんでこんなに暑いかな……。
2032年、地球温暖化が限界点を超えてしまった今、6月の日本には早くも真夏の暑さが襲来していた。今では真冬を除いて、一年中、熱中症で救急搬送される人が絶えなかった。
未来は帽子を忘れてきたことに気が付いて、家に戻ろうかと思ったが、一度帰れば、もう出かける気にはならないだろうと思い直し、そのまま海に向かって歩きだした。
海岸に出ると、海からの風が心地よかった。
未来が木陰で涼んでいると、後ろから、
「隣に座ってもいい?」
という声がした。
振り返ると、同級生の陽葵(ひまり)が立っていた。
未来は心臓が飛び出すのではないかと思うほど驚いた。メタバースではいつもいっしょにいる彼女だったが、現実世界では、これまで一度も話をしたことがなかったからだ。
その彼女が、メタバースのアバターと同じように、優しく微笑みながら、未来を見ている。
未来は顔が真っ赤に火照るのを感じながら、いつものように、ただ、もじもじするばかりだった。
そんな未来にしびれを切らしたのか、陽葵(ひまり)は、
「座るわよ」
と言って、ぴったりと体を寄せてきた。
陽葵(ひまり)は長い髪を風になびかせながら、ただ黙って座っている。潮風に乗って、彼女の髪から淡い石鹸の香りが漂ってきた。
未来は心臓の鼓動が少しずつ収まるのにつれて、こうして陽葵(ひまり)と並んで座っていることが、アバター同士のように、自然なことのように思えてくるのだった。
ここはメタバースじゃなくて、現実世界なんだよな……。
目の前に広がる海は、現実の景色だ。隣には本物の陽葵(ひまり)が、ぴったりと身を寄せて座っている。彼女の温もりが、体に伝わってくる。
未来はこれまで味わったことのない、うっとりとした気分に包まれていた。
これって、もしかして、初恋……?
そう思うと、未来はまた顔が熱くなった。
「きれいね」
陽の光に揺れる波を眺めながら、陽葵(ひまり)がポツンと言った。
「うん」
未来はようやく、相槌を返した。
それから二人はまた、ただ黙って海を眺めているのだった。
そうやって、いったいどれくらい座っていたのだろう。
「じゃ、またね」
またポツンとそう言ってから、陽葵(ひまり)はゆっくりと立ち上がると、軽やかに駆け出していった。
彼女の後ろ姿をぼんやりと目で追いながら、未来はもしかしたら夢を見ているのかと思い、自分の頬をそっとつねってみるのだった。
やっぱり現実だ……。
夕方、未来が家に戻ると、ちょうどパパも帰ってきたところだった。手には大きなバッグをぶら下げている。今夜はパパが食事当番だった。
未来はいつも、パパの料理を楽しみにしていた。ママやばあにゃと違って、パパが作る料理には、野菜のほかに、肉や魚など、今では手に入りにくい食材が使われていたからだ。
今日もどこで調達してきたのか、買物袋の中からはハンバーグが出てきた。
「わー、ハンバーグだ! それ、本物?」
と、未来が訊くと、
「本物だよ。ただし、牛肉じゃなくて、豚肉だけどね」
と、パパは得意そうに答えた。
「うそでしょう。いまどき本物の肉なんか、どこに行っても買えないわよ。それ、培養肉じゃないの?」
と、ママがいかにもいぶかしそうな目でパパを見た。
「みんな疑い深いんだから。これは、パパたちが支援している農業団体が育てた、正真正銘の豚のハンバーグだよ」
「そうなんだ。今日、パパがくれたジュースも、そこで造っているんだよね」
「そうだよ。すごいだろう」
と、パパは自慢げに話を始めた。
衰退した日本の農業を少しでも立て直そうと、パパたちのNPOが支援している農業団体は、有機栽培による野菜や果物を使ったジュースや加工食品の生産から、有機飼料で育てたニワトリや豚の食肉加工まで、幅広い事業を手掛けていたのだった。
「でも、それって、ゲノム編集で品種改良したゲノム豚でしょ」
ママはなおも納得しない。
「いや、本物の在来種だよ。ママには申し訳ないけど、ゲノム編集で品種改良した家畜は、やっぱり安全かどうか、不安があるからね」
「そんなことないわよ。ゲノム編集は遺伝子組換えと違って、人類がこれまでやってきた植物や動物の品種改良を、ゲノムレベルで効率よくやっているだけだから、安全性に問題はないわ」
ママは生命科学の専門家として、パパの根拠のない疑問にむきになって反論したのだった。
「難しいことはわからないけど、人間の都合で勝手に自然を変えてしまうのは間違いだと思う。それは人類の傲慢というものじゃないかな」
「私はそうは思わないわ。これまで科学は、人類の進歩に大きく貢献してきたわ。もちろん、科学は万能ではないけど、科学技術のおかげで、ここまで人類が繁栄できたことは事実だわ」
「その結果が、地球温暖化による人類絶滅の危機というわけだけどね」
未来は目をパチクリさせながら、二人の議論を聞いている。
ばあにゃは、また始まったかという顔をして、
「お二人さん、議論はそのくらいにして、ご飯を作っておくれな」
と言った。
夕食が済んで、みんなでくつろいでいると、突然、リビングの電力モニターが、
”ピッ””ピッ”
と短く鳴ったかと思うと、
”あと1時間で電気がなくなります”
と告げた。
「え、なんで?」
とパパがすっとんきょうな声を上げた。
「今日は朝からカンカン照りだったから、蓄電池はフル充電だと思っていたんだけどなあ」
とパパは嘆いた。
関東地方は、午後から臨時停電が続いていたが、我が家の電気は十分だろうと、パパは油断していたのだった。
最近は、計画停電以外に、頻繁に臨時停電が起きている。
未来の家はエネルギー収支がゼロになるように設計されていた。太陽光発電と蓄電池に加えて、電気自動車にも充電するので、今日も電気は十分賄えるはずだった。
「あなた、電力量の設計が甘かったんじゃないの?」
と、ママがちょっときつい表情で言った。
「そうかもしれないなあ。でも、当時はこんなに頻繁に停電が起きるとは思っていなかったからね」
と、パパは頭をかいた。
「これがいつもの、想定外というやつね」
ばあにゃが笑いながら言った。
「それじや、電気が切れる前に、今夜はみんなで早く寝ましょう」
とママが言うと、パパとばあにゃはいっしょに頷いたが、未来は、
「えー? これからパソコンやろうと思ってたんだけどな」
と、膨れっ面をした。午後の海辺のあの出来事を、もう一度メタバースで再現したいと思っていたからだった。
「今夜は我慢しなさい!」
と、ママにきつく言われて、未来の頬はさらに大きく膨らむのだった。
「じゃあ、電気が切れる前に、急いで片付けなくちゃ」
そう言いながら、パパはテーブルの上の食器をキッチンに運び始めた。
「私も手伝うわ」
「ありがとう。でもママはいいよ。明日までに論文を仕上げないといけないんだろう」
「ええ、でも明日の朝、早起きしてやるからいいわ」
そう言いながら、ママは汚れた食器をさっと水洗いしてから、食器洗浄機に手際よく入れていく。
ばあにゃはなおも膨れっ面の未来の頭を撫でながら、
「それじゃ、先に休ませてもらうよ」
と言って、席を立った。その途端、
「あイタタタタ!」
と腰に手を当てるばあにゃに、未来は心配そうに尋ねた。
「ばあにゃ、大丈夫? その腰、やっぱり、ママに頼んでゲノム編集で治してもらったら?」
「そんな訳のわからないもので、ゲノムばあさんになるのはごめんだね」
と、ばあにゃが言うと、パパもママもお腹を抱えて笑い出した。
2年前に、ヨーロッパで戦争が始まってからというもの、世界のエネルギー事情は悪化の一途を辿っていた。
再生可能エネルギーへの移行が遅れた日本など多くの国々では、特に深刻なエネルギー危機に見舞われていたのだった。
すでに地球温暖化が限界点を超えてしまい、気候変動がますます激化している今、これ以上化石燃料を燃やすことは許されなかった。
かといって、原子力発電に頼ることもできなかった。ミサイル攻撃を恐れた各国は、安全保障上、原発を停止せざるを得なかったからだ。
こうして、八方塞がりに陥った各国のリーダーたちは、こぞって、核融合という切り札に活路を求めた。核融合は太陽のなかで起っている膨大なエネルギー反応であり、それが地上で実現すれば、エネルギー問題は永遠に解決すると考えられている。
これまで各国は競って実験炉を建設し、実用化も間近だと思われていた。ところが、実用化を目前に控えて、さまざまな技術的問題が次々と噴出していた。さらに、核融合炉の建設には、想像を絶する莫大な資金が必要だった。
夢のエネルギーは、悪夢のエネルギーともなりうる。
あまりに大きすぎる技術は、人類が制御できる限界を超えて、想定外の事態を引き起こす危険性があるのだ。
2032年現在、核融合炉はほんとうに実現できる技術なのか、いや、そもそも実現させてよい技術なのかどうかを巡って、世界の世論は真っ二つに割れていた。
未来がぐずぐずとスマホをいじっていると、電力モニターがまた、
”ピー ピー”
と、今度は少し長く鳴ってから、
“あと30分で電気がなくなります”
と警告した。時刻はまだ8時前だった。
ママはリビングの電灯のスイッチを手に取ると、
「未来、早く寝なさい!」
と、急かすのだった。
ちぇ! いったい、なんでこんなことになってしまったんだ……。
(続く)
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