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彼との癒しの時間がなくなったとき

バツイチの私は、塾講師をしながら、高校生の一人息子を育てている。
そんな私にも、昨年の秋からお付き合いをしている男性がいる。
息子が高校生になり、自分の人生について考える時間ができると、子離れの現実が寂しく心に響くようになった。息子を手放さねばならないなら、もう一度、心が寄り添えるパートナーを探し、やり直してみたい。元夫と結婚している時でさえ、理想的なパートナーと出会うことを願い続けてきた。でも、思うだけでは、人生は変わらないものだ。黙って待っているだけで、幸せが勝手にやってくるなんてことは、私の人生では起こらなかった。そこで、マッチングアプリという怖そうな世界に足を踏み入れてみた。

アプリで、何人かと会話をする中で、2つ年上の新聞記者である彼に出会った。書くことを仕事にしている彼は、毎回長文の返事を送ってくれる。普通なら、読むのが面倒で嫌がられる長文かもしれないが、私には長ければ長いほど、彼のことがよく分かり、誠実な人に感じられた。丁寧に綴られた文章をゆっくりと読み進めると、彼の人柄が温かく伝わってくる。その時、彼は外勤記者をしていた。いつも取材をして生き生きと働いているようだ。エネルギッシュで、動くことが全く苦にならない。取材の合間には、私にまめにメッセージを入れてくれた。その日どんな取材に行くのか、どこにいるのか、メッセージを読みながら思いを巡らせる。塾のビルの中で、時間割に追われながら、同じことを繰り返す私には、彼の世界が新鮮に思えた。私にとって癒しとなるのは、彼の存在といえるだろう。アロマオイルや温泉のように、ほっとできる存在だからだ。でも、人であるからこそ、いつでも同じように癒しを得られるとは限らない。今、私は、癒しの時間を手に入れる方法を模索しているところだ。

彼と出会った頃は、彼に会うことが私の癒しそのものだった。
外勤記者の彼は、時間に融通が効く。私の休憩時間を見計らっては、いつも会いに来てくれた。職場との距離は、決して近いわけではない。車で1時間半はかかる支社に彼は勤務していた。遠く離れた状態でも隙間時間をお互いに見つけ、少しの時間を大切にするようになる。夕方に取れる短い休憩時間に合わせ、私の職場近くのカフェで会い、言葉を交わす。忙しい私たちが会える時間は、1時間しかない。そんなわずかな時間でさえも、彼の温かな眼差しを見つめ、コーヒーを飲む時間は、何よりも癒しの時間に思えた。

喧嘩もなく穏やかな日々が続いたが、付き合いが始まって3ヶ月くらいで彼に辞令が下りた。25年間近く続けていた外勤記者の生活を大きく変えねばならなくなったようだ。本社に異動をすることになり、彼は「デスク」へ配属された。担当は社会面だ。新聞の顔ともなる責任が重いページの担当となる。地元新聞社は人員確保も難しいのだろうか、重責が彼にのしかかる。社会面には、地元ネタを載せることが当たり前となっているようだ。掲載にふさわしい記事があるかどうか心配する日々が続く。
「明日の記事がまだ確保できていないんだ……自分で取材してしまった方が簡単なんだよなぁ……」
彼がぼやくようになった。新聞記者にもさまざまなキャリアの人がいる。全ての記者が、ベテランのように質の高い取材ができるわけでもない。記事を手直しすることが仕事の彼は、文字通り「デスク」に張り付いて記事を見続ける日々を過ごしている。普段の勤務は13時頃からで、終わるのは深夜だ。夕方の会議で、翌日の新聞の記事が決定し、その後は締め切りまで時間との闘いになる。休憩時間も、夕飯を食べる余裕もなく、ひたすら記事をチェックする。その間にも、新たな事件事故が起きて、記事が届く。
忙しさが重なるにつれ、丁寧に綴ってくれた私へのメッセージは、あまり見られなくなった。LINEのメッセージがそっけない。日常的に食事休憩さえ取れない仕事だから、メッセージなんて期待してはいけない。そう分かってはいても、私にも聞いてほしいことはある。どうしても新聞記者が特殊な世界の人に思えてしまい、忙しさに心も付いていけず、少しずつすれ違いが増えていった。癒しだったはずの彼の存在が、ストレスへと変化していく。

人は、良い変化にはすぐ適応できるが、好ましくない変化にはなかなか適応できないものだ。ロボットとは違い、人には心があるから仕方がないのかもしれない。彼の今の忙しい生活を認めて、聞き分けのいい、大人の女性でいよう。日々そう思って背伸びはしても、うまくいかず、出来の悪い私を露呈してしまう。

先日、私に決断に迷うことが起きた。私はどうしてもその日に返事をしなければならないと焦っていた。きっと、人生選択の答えは、自分の心の中に既にあって、誰かに助言を求める必要はないのかもしれない。だから、自分で答えを出せばいいだけなのに、大きな決断をしなければならない時は、不安がやってきて、誰かに背中を押してほしくなる。本当は高いバッグを買いたいのに、勇気が出なくて買えないような、誰かに少し背中を押してほしいことが急にやってきて、彼にアドバイスをもらいたかった。

忙しい彼とは会えないから、いつものようにLINEでメッセージを送った。彼にLINEのメッセージを送れば、読んでもらいたい気持ちになる。ところが、LINEを何度チェックしても、なかなか既読にならない。きっと仕事が忙しいのだろう。文面を読めば、大切なことだと分かってくれるはずだ。既読になったLINEを見て、彼が心配してくれるはずだと信じてしまった。しかし、既読になってから何時間経っても、メッセージが返ってこない。心配してほしいのに、無視されたような気持ちになり、勝手に送っただけのLINEのメッセージの反応にイライラと寂しさが入り混じった。もちろん、明日のニュースより私のニュースのほうが小さい。それでも、彼にもっと心配してもらいたかったのだろう。

電子メッセージは、簡単にやり取りできるが心を伝えることは難しい。文字の中に、人の思いを凝縮すればするほど、時にすれ違いが起きるからだ。そして、無感情に響く電子文字の先にある心を理解することが難しいときもある。どんな気持ちで読んでいるのかで、受け取る側に違いが出るからだ。LINEのメッセージを読んで、彼はすぐに返事をすべき内容ではないと思ったようだ。時間のある時に、ゆっくり書こうと思い、そのまま何も書かなかった。その態度を、私は無視をされたというメッセージとして受け取ってしまった。便利なツールが、癒しどころかすれ違いを起こしてしまう。
出会った頃、頻繁に交わしていたメッセージがきっかけで私たちは付き合うことになったのに、喧嘩の原因になるようになってしまった。

彼との時間を穏やかにするために、私はLINEでメッセージを送ることを控えることにした。過去の癒しの時間を追わず、もう手放すことに決めたのだ。癒しの時間は、無理やり生み出すものでもない。
「仕事が終わった後、少しでいいから電話で話しましょうか?」
彼からの提案で、1日あったことを直接話して伝え合う時間を作ることにした。書くことが好きな私は、文字を読むことが好きだ。それでも、今それができないならば、その時間を追い求めることはやめるしかない。

今できることの中で、心が満たされる方法を考え直す。過去の時間と比較して、その時間を無理に取り戻そうとしない。それが、癒しの時間を手にいれる方法ではないだろうか。

息子の高校が始まると、私は朝5時半に起きねばならない生活になる。塾講師の私は、夜が遅いが、それでも彼に合わせて夜中まで起きているわけにはいかない。電話で話せる時間にも限りがある。

今、私たちは、忙しさで時間がなくぶつかり合うことがある。一緒に行くはずだったライブに、事件が起きて当日行けなくなったり、会えるはずだった日に、彼が仕事に行かねばならなくなったりしたことも何度かあった。以前の癒しの時間を追い求め、彼を責めたこともあったが、それは天気を変えようともがき苦しんでいることに等しいかもしれない。見えている現実は変わらない。だから変えようと苦しむよりも、変わらない現実から癒される時間を見つけ出していけばいい。
きっと、それが頭で分かっても、心が分かろうとしない日がやってくるだろう。そんな時は、ぶつかっただけ、いい関係になれる。そう思いながら、急な変化に対応できない自分を許し、新しい癒しの時間を楽しんでみたい。