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本は傷ついた心の拠り所になる……母から伝えられた読書経験からの読み方

私は、高校生になるまで読書が好きではなかった。
活字を読むのが億劫に思える。子供の頃は、テレビばかり見ていて、読書は読書感想文を書くためにしなければならない苦行とさえ思っていた。今思えば、とても残念な子供時代を過ごしたと思う。
私の母は、読書が大好きだ。今で言う「歴女」といったところだろうか。母は、歴史に詳しく、本もたくさん読んでいる。徳川家康について書かれてある25冊以上の本を読みきった時は、家康を目の前で失ったような、大きな喪失感に駆られたと話していたことを覚えている。
そんな母が語ってくれた読書経験の中で一番心に残っているのは、母が20歳だった時のことだ。母自身が、母親を失ってしまったのだ。親の死を受け入れようと、必死にもがき苦しみながら生きていたことがあるという。大学を卒業したら、母親にしてあげようと思っていたことが、全てできなくなってしまった。その喪失感の中で読んだ本の存在が忘れられない、と母は大切にしている本を私に見せてくれた。

読書は傷ついた心の拠り所になる……それが、母から受け継いだ、読書をすることの素晴らしさだった。何をするよりも読書が好きな母なのに、なぜ私には読み聞かせのような形で読書の楽しさを伝えようとしなかったのだろう。その理由が今でも私は理解できないが、「私」という存在を、自分とは違う一つの個性だと思っていたのだろうか。きっと、「読書は一人で楽しむもの」という、母なりの考えもあったのだろう。だから、普通の親が当たり前にするような絵本の読み聞かせをしてくれなかったのかもしれない。たくさんの本を子供部屋には揃えてくれていたが、綺麗に整えられた本は、ディスプレイの一部になっていた。活字嫌いの私は挿し絵を楽しむ程度で、読もうとは思わなかった。残念なことだが、私には、「思い出の絵本」がない。絵本を親に読んでもらった温かな記憶も持ちあわせてはいない。もしかしたら、その経験の無さが本嫌いの私を生み出した可能性もある。

私が読書を始めたのは、高校生になってからだった。きっかけは、思春期特有の悩みからだ。高校生によくある、失恋である。母にも誰にも言えず、苦しみを抱えながら一人悩んでいた。初めての失恋は、思いのほか心が痛い。その心をどう扱ったらよいものか、初めての経験なだけに苦しんでいた。「読書は傷ついた心の拠り所になる」……母から受け継いだこの考えを、心のどこかで覚えていたのだろう。本へと自然に手が伸びた。読みやすいエッセーから始まる。あんなに興味のなかった活字の世界が、心に染みてくる。次第にもっと深いものにも触れたくなって、フランス文学へと興味が進んでいった。とても偏った読み方ではあったかもしれないが、お小遣いはほぼすべて本に費やすような生活が始まった。きっと、本の中に、苦しさの答えを見つけようと、もがいていたのだろう。
こうして、失恋の心の痛みを癒すために、本に心の拠り所を求めて、一人で読書にのめり込むようになった。失恋が、私に読書の時間を与えてくれた。大切な人を失うことで、読書という心の拠り所を得た気がする。

読書は心の拠り所になる……息子を授かった時、私は息子に本を読む楽しさを伝えたいと思った。母親との読書経験がなかったことは、とても大切な人生の宝物を逃したような気さえしたからだ。お腹にいる息子に、本の読み聞かせを始める。息子に一番最初に与えたものは、読書体験と言えるだろう。歯磨きやお風呂の習慣と同じように、本を読むことが生活の一部になってほしい。本の中に、息子の好きな世界がたくさんある。そう信じて、息子にはおもちゃよりも一番先に絵本を与えた。

息子への読み聞かせは、順調に日課となったが、ある日、読み聞かせができなくなるかもしれない出来事が起きた。
今から10年以上前、息子が5歳の時、私は体調が悪かったことがある。
ある日、私は40度近い熱を出した。理由はさっぱり分からない。当時は、少しくらい熱があっても、仕事をすることが普通だった。夏の暑い日に熱を出し、とても仕事を休める状況ではなかったから、熱で苦しい体を無理やり動かし仕事をしていた。すると、ますます体調は悪化し、熱が下がった後は腕も上がらなくなり、足も動かず、節々の激痛に苦しむことになった。原因不明の熱の後、リウマチのような症状に苦しむ日々が続く。結局、りんご病だったのだが、複数の検査をすることにより甲状腺に腫瘍があることが偶然分かった。

腫瘍に対するもっと細かな検査をするよう言われ、病院に行く。きっと何でもないだろう……軽い気持ちで検査に行った。そして、その後、医師から思いもよらぬ結果を聞くこととなってしまった。検査結果を眺めながら、医師は淡々と語る。
「腫瘍が、良性ではない可能性があります。腫瘍の大きさも普通より大きいですから、早めの手術をお勧めします」
何を言われているのか、心に入ってこない。何でもないと言われるために来たのに、手術とはどういうことなのだろう? 頭の中が真っ白になりながら、できるだけ落ち着いて、医師に尋ねた。
「先生、良性ではないとしたら、私はガンということなのでしょうか?」
落ち着いた答えが返ってくる。
「ガンではないとは言い切れません。もしかしたら、ガンではないかもしれません。検査だけでは良性とは言い切れないということです。腫瘍も大きく、経過観察は厳しい状態です。だから、手術をお勧めします。今日は、ご自宅に戻って、ご家族と手術の日程を決めて来て下さいね」

少しずつ時間が経つにつれ、自分自身の置かれた状況を理解し、怖くなり始めた。ガンだったら、私は、長く生きられないのだろうか? その事実を受け止め、耐えていけるのだろうか? 5年生存率はどのくらいだろうか? 初めて、「死」というものが身近に迫るのを感じた。街を歩いても、仕事をしていても、テレビを見ていても、「死」というワードがやたらと目に飛び込んでくる。何よりも、一番怖かったのは、息子を置いて旅立つことだ。まだ、生きるために必要な、大切なことを伝えきれていない。今、死ぬわけにはいかない。息子のために、生きていたいと思うことさえ、ワガママなのだろうか? 他のママ達が生き生きと輝いて見え、その度に深く落ち込んだ。なぜ、私だけがこんな思いをするのだろう? そう言いたいのを堪えながら、恐怖心と闘う日々が続く。

心の中は不安でいっぱいだったが、次第に私は現実に向き合い始めた。ガンで余命が短くなってもいいように、万が一に備えて、私は、息子に何が残せるかを考え始めたのだ。幼い息子に、今「人生」を説いても、きっと難しすぎて何も残らないだろう。理解できない話をするよりも、その瞬間の息子との時間を大切にしたい。一番与えたかったのは、一緒に絵本を楽しむ時間だった。絵本を読む時間は、息子に愛情を与えることと同じような気がしていたからだ。

そこでまず、1冊の絵本雑誌を手にする。私は、子供の頃の記憶で、息子に絵本を選ぶことができない。雑誌の中の絵本は、ほとんど知らないものばかりだった。
雑誌は、テーマごとに分けられ、お勧めの本と短い説明が書かれていた。様々なテーマの中で、私が息子に一番伝えたかったことは、「死」についてだった。幼い息子が、もし母親を失うことになっても、代わりに絵本がいつも隣にあれば、息子に寄り添ってくれるかもしれない。息子が辛い時に、「心の拠り所」になってくれるかもしれない。もし私がそばにいられなくなっても、息子と絵本を読んだ時間は心に残り、「あなたをずっと思っている」というメッセージを伝えることもできるかもしれない。
私が今伝えたい心が、分かりやすく描かれている絵本はないだろうか? と考え、雑誌に書かれてある本を少しずつ買い揃えた。自分自身のその瞬間の心を整理するかのように、気になった絵本から読み聞かせの形で、息子と読み始める。
息子のために、息子に私の思いを伝えるために、絵本を読み続ける日が続いた。

「死」を扱うテーマは、難しいこともあり、5歳の息子には理解ができない絵本も多かった。そして、気になった絵本を何冊か読むうちに、これだと思う1冊に出会う。
「大切な人の存在がなくなっても、その人から与えてもらったことは、心の中で生きていく。与えられたものを心で感じ続けていけるのだから、死というものは寂しいものではない」
絵本からのメッセージを読みとり、これが一番息子に伝えたいことだと実感した。もし、息子と長くいられなくても、私が息子に与えたものを数えて生きてほしい。そして、その中で息子は私から愛されていたということを感じ続けてほしい。絵本に私の心を代弁してもらえたような気がして、何度も、何度も、息子に読み聞かせた。

10年以上経った今、私は幸い生きているが、苦しい状況の中で息子と分かち合った「読み聞かせの時間」を決して忘れることはない。そして、その絵本の中に込められたメッセージも、決して忘れることはなかった。絵本を通した時間は、いつまでも記憶から失われることがなく、息子の心の中にも温かく残っている。私の母から学んだ「読書は傷ついた心の拠り所になる」という読書経験が、息子と私の今に繋がっている。私は、母と絵本を楽しんだ経験はなかったが、母から伝えてもらった読書経験が、私の読書のスタートとなった。

本は、人の心に寄り添うことができる。
つい最近、親を失った中学生がいた。きっと事実を認めることさえ苦しいだろう。話しながら涙を流すその子のために、背中をさすり、一緒に泣いてあげることしかできなかった。どんなに苦しいだろう? どんなに寂しいだろう? 私の想像以上のはずだ。寄り添ってあげたくても、心が軽くなる言葉をかけてあげたくても、相手を思えば思うほど、適切な言葉が見つからない。何かできないだろうか? その時に、私が考えたことは、本をあげることだった。どんな本ならば、心に届くだろう? さんざん考え、悩みながら私が選んだ本は、息子との思い出の絵本だった。自分が「死」に直面し、息子に伝えたかったことが込められていたからだ。
本を手にしたその子が、何を思うだろう? 傷ついた心を刺激してしまわないだろうか? 心配になりながらも、その絵本を送る。
下手な慰めより、もっともらしい言葉より、本は静かに傷ついた心に寄り添ってくれる。
私は、誰かに自分の心を届けたい時、本をプレゼントすることがある。私が発する言葉以上に、本がその人の心に優しく寄り添ってくれると思うからだ。
他者を思う本の読み方の始まりは、母からの「傷ついた心の拠り所になる」という読書経験だったように思う。

私は、他者を思う本との関わり方をこれからもしていくだろう。静かに人の心に寄り添える本の存在が、私には心地よく、必要だからだ。


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