見出し画像

凄くも、偉くもない自分。

昨日の記事を推敲していたら、書きたいことが浮かんできたので書きます。

私は子ども時代、学校の勉強を頑張る子どもでした。頑張っていたので、テストの点はよかった。しかし、テストの点が良かったことで「私は偉い」、「私はすごい」と思ってしまいました。テストの点数が高いことを、自分の「人格が高い」と勘違いしてしまったのです。それは、小、中、高、予備校と続き、大学に入学したところで、ピークを迎えました。

大学に入って、私は講義についていけない自分に出会いました。理由は、今でも、分かりません。予備校まで私が取り組んできたことが、大学では通じませんでした。私は講義に出なくなり部活動にのめりこみました。そこで、私は褒められました。講義が分からずピンチに陥っていた私のプライドを、部活動は救ってくれました。それは演劇でした。「私はやはり凄い」。
演劇は、そう思わせてくれました。

大学を卒業した私は、フリーターになりました。演劇は、やったり、やらなかったりになり、始めたころの熱は失われ、賞賛を受けることもなくなり、私は何者でもないフリーターになりました。しかし、「私は凄い」という「プライド」とその裏側にある「劣等感」は消えることなく私と共にありました。

勉強と演劇を失った、私には、何もありませんでした。生活も仕事も人間関係もお金も、ぐちゃぐちゃで、ダメ人間になり、周りの人に迷惑をかけました。私は精神科の門を叩き「統合失調症」の診断を受け、その土地を離れ、実家で療養生活になりました。

それから20年以上がたち、今に至ります。
今は、生活保護と短時間のバイトをしながら、一人暮らしをしています。

今の私には「凄い」も「偉い」もありません。平均的な52才の日本人男性の能力を数値化したとしたら、かなり下です。私には弟がいます。妹もいて妹には夫がいます。比べることに意味はないと思いつつ、つい比べ、能力の差は埋まることは今後ないと、劣等感を抱きます。でも、生きていかなければ、なりません。

先日、精神科のクリニックで、主治医との会話のあまりの変化のなさに「私は今後変わらないのでしょうか」と尋ねてしまいました。すると先生は「そうですね。基本的には、変わらないです」とおっしゃったのです。私はショックを受けました。「変わろう」とし続けてきたからです。ただ、ほっとした自分もいました。「このままでよいのだ」と思った私もいたのです。少しずつよくなってきたのは、事実です。でも、基本、変わらない。

カタルシスのない記事になりました。でも、これが今の自分だし、当面付き合っていく自分です。

一日、一日、こつこつ生きます。

最後まで、読んでくださって、ありがとうございました。
感謝します(^_^) 。

今がゴールで、今がスタートだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?