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コミュ障が中間管理職になって考えたこと / 地方中小企業のカルチャー


別に昇格したいわけじゃなかったんだけど…


心の中は今でも十代の不器用な少年の頃のままだが、残念ながら三十代も中盤に差し掛かってしまって、今年度から中間管理職に昇格させてもらっている。

正直言って、仕事にはそこまで熱心に取り組んでいるわけではない。
しかし、そもそも数人しか居ない社内の若手(全員三十代)の中ではどうやら一番の評価を得ているようで、組織の上でも業務の上でも、ある程度の責任を持つことになった。

『個人個人がそれぞれの案件を受け持つ技術職』という仕事柄もあいまって、チームビルディングへの意識なんか毛頭持っていなかった。
チーム内でのコミュニケーションに対しても、
―― 挨拶とか、雑談とか、一応はやるけどめんどくさいな。
ってくらいにしか思っていなかった。

恥ずかしながら中間管理職という立場になって初めて実感したのは、こういったコミュニケーションを含めた「組織の状態を良好に保つこと」の必要性の高さである。
チームのメンバーが今どんなテンションで仕事をしているのか。
何かに悩んだりせず、安心して仕事に臨めているのか。
そういうことに、最近になって初めて意識が向いている。

平たく言えば、雰囲気作り、という話なのかもしれない。
同じ部課内の並んだ机の中で、一緒に働く人の気分に少しでも良い影響を与えようとする。
そのために必要なのが挨拶であり、雑談だったんだ、というふうに感じている。

地方中小企業の組織カルチャーについて


noteに居る人たちは上場企業に勤める優秀なエリートが多いかもしれない(偏見)ので、先に僕が務める地方中小企業のコミュニティの雰囲気について触れておく。
最初に言っておくが、これは僕の持論というか、個別に置かれている環境による感想かもしれず、一般化して考えることが出来ない部分でもある。

地方中小企業のコミュニティの在り方は、やはり大企業とは違うと感じる。
カルチャー、とか呼ばれる部分なのだろう。

少々感覚的な話になるが、同僚とのコミュニケーションに対する「線の引き方」が違うような気がしている。
これは僕が、全国展開する上場企業に5年間勤めた後、小さな地方企業に転職して7年間勤めた感想である。

上場企業に勤めていた頃は、日頃の雑談の中で多くの割合を占めていたのは
「業務の話」「取引先の話」「他の支社・部課の人の噂話」
「飲食店等の話」次いで、「同僚の噂話」
というようなことだったように思い出される。
個人のプライベートの細部まで込み入った話をすることは少なく、そういった話をするにしても、飲み会のような会話が目的となる場所で交わされることが多かった。

対して地方中小企業では、上記のような話ももちろんするが、
「同僚の噂話」
の割合が相対的に高いような気がしている。
また、互いの込み入ったプライベートトークをすることも多い。(しかもシラフで、長々と)
話し相手とのプライベートトークをするにしても、あるいはその場に居ない人の噂話をするにしても、その人の個人的な状況(例えば子供とか家族の状況、持病の有無、実家がどこで何をしているか、趣味嗜好…etc)を知っていることが前提のコミュニケーションが展開される。
飲み会の回数で比べると、むしろクルマ社会の中にある地方中小企業の方が圧倒的に少ないのだが、コミュニケーションの質には独特の濃密さがある。

一言で表現しようとすると、他人との一線・・を引く、その距離感が違うように感じるのである。
どちらが良い、悪いという話をしたいわけではない。
地方中小企業のコミュニティの在り方には「家族的」という言い方が似合うかもしれない。
個人的な考えとしては、こういうコミュニティの在り方は一概に古いものとして否定されるべきではないと思っている。

中小企業の多くには人間の出入りが(相対的に)少なく、ずっと同じ少人数のメンバーで働く組織がある。
もう一方の上場企業には、毎年新人が入って来て他の支社への転勤もあり、毎年のように離職する人を送り出す組織がある。
カルチャーが違うのは当たり前のことだろう。

直感による仮説を放り投げておく。
大組織に属する人間は、その言動を決める思考に『論理ベース』が強い。
一方で小さな組織に属する人間は、その思考の中の『感情ベース』の部分が強い。
この傾向は、1対1の個人間のコミュニケーションでも概ね変わらないように感じる。

コミュ障が中間管理職になった時に考えたこと


そもそも僕はコミュニケーションが苦手である。
元来が内気なコミュ障なのである。
だからこそ「組織内でのコミュニケーション」への課題意識を強く感じる。

コミュニケーション強者である陽キャどもは、ウェイウェイ騒いで楽しむことを主眼に置いて思考し、己の振る舞いを決定する。
冒頭に書いたような「コミュニティを構成するメンバーがどんなテンションで居るか」「どうすればこの場を盛り上げることが出来るか」という点に対して強く意識を向けている。
(これは僕による偏見である。)

そういった人々はおそらく、「組織の雰囲気作り」に対して日常からコミットしている。
そこに精神的なリソースを割くことを何とも思わない。(というか、リソースを割いているつもりすら無いのかもしれない)
一匹オオカミで不愛想に仕事をしていた僕よりもよっぽどの組織人なのである。

平社員、あるいは主任くらいまでのクラスであれば、例え不愛想に仕事をしていても周囲への影響はそこまで大きく無いのかもしれない。
しかし係長以降のクラスになってくると、段々とその「不愛想であること」に対する悪影響の度合いが高まってくるように感じている。

寡黙に一人で、黙々と仕事を片づける。
それも組織で働く個人の姿としてはあって良いものなのだろう。
しかし全員がそういうスタンスであってしまっては、組織は精神的な健全性を保てない。
個人的な意見として、「雑談で笑うこと」「他人からの承認を得ること」が組織の健全性を保つことに必要なのではないかと感じている。

――今日、会社で誰とも話さなかったな。
僕が働く職場では、個々人がそれぞれの案件を受け持って個別に作業を進めるため、下手をすればそんな状況があり得る。

しかしその状況は、組織としては本当に避けるべきことなのだろう。
外部からの刺激が無い個人的な作業のみに終始すると、段々とその人のテンションは下がっていく。
午前中はまだ良いかもしれないが、勤務時間の後半には目や肩が凝りはじめ、頭がぼんやりとし、パフォーマンスもモチベーションも低下していく。

こういった「下がったテンション」の回復に特効薬的に役立つのが、「雑談で笑うこと」であるように思う。
業務とは別の思考回路が刺激され、脳内が一旦リセットされる。

雑談が良い休憩、気分転換になると言いたいわけではない。
むしろ僕みたいなコミュ障は他人との会話を負担に感じるし、なんだったら雑談に疲れたと感じることだってある。
しかしこの「別の思考回路が刺激される」ということが非常に重要であるように感じている。
口を動かし、姿勢を変えて他人の顔を見て、別のことを考える。
こういった強制リセットを挟むことで心身の凝りを解消し、再び集中に向かう波を作ることが出来る。

雑談の効用はそれだけではない。
雑談の中では、当然ながら仕事のことも話題になる。
別して相談しようと思わないまでも、実際には個人的に抱えてしまっているような『小さな悩み』
あるいは『少しだけ自信が無い意思決定』
こういったものが個人の中で積み上がってしまうと、組織ではなく「一人で戦っている」「一人で責任を負っている」という感覚が生まれていく。
これが精神的な負担となり、業務に対して気が重くなっていくことがある。
負担感に蝕まれるように徐々にテンションが下がっていき、モチベーションが低下していく。
最終的にはその業務に対して、必要以上に「嫌だな」という拒絶感を覚えるようになる。

雑談の中で仕事の話題になることで、こういった個人的に抱え込んだものに対して細やかな承認行為が発生する。
承認し、状況を共有することで業務に対する負担感や拒絶感を軽減することが出来る。
これが有るのと無いのでは、その組織で働くことに対する心理的安全性の度合いが全く違うものになるように思う。

前述したように、僕の働く職場では『感情ベース』の思考が割と強い。
組織内の論理性思考が強い場合には「きちんと仕事をこなしている」という事実が自己の存在を担保するものとなるが、感情ベースの思考が強い家族的なコミュニティの場合には「他人にどう思われているか」という点が気になり始める。

このことが、組織カルチャーに対する雑談(⇒承認行為)の重要性を規定しているように感じる。
下手をすれば若手の離職の原因にもなるような要素なのではないだろうか。
だからこそ「自分の活動が組織から承認」されており、自己の存在が担保されていると実感できることが、殊に重要になるような気がしている。

中間管理職という立場について


中間管理職はこういった細やかな承認を「与える側」の身分である。
コミュニケーションの活性化、ひいてはチームを明るい雰囲気に導き、全体のパフォーマンスを高めることに対してある程度の責任を負う。
個人的な状況を話すと、今の僕は全くこれを出来ていない。
だからこそ課題意識を持ち、こういう記事を書いている。

個人的な分析だが、中間管理職が難しいところは『上に対しても』『下に対しても』アプローチする必要があるということである。

部下となる後輩の状況を見て「凝り固まってそうだな」と感じたら雑談を仕掛けに行く、承認を与えに行く。
こういったことは、もちろん職位者として行うべき行動である。

しかし最近になってもう一つ感じるのは、『上司も人間だ』ということである。
小さな悩みを積み上げ、少しだけ自信が無い意思決定を繰り返しているのは、部下だけでなく上司も同じなのである。

部長・課長クラスの上司が機嫌良く仕事が出来ているかどうかという点は、そのチームの働きやすさを大きく左右する要素である。
中間管理職はチームに対する責任を上司と共有する立場にあるため、これらの悩み等を共有することが出来る。

上司と雑談をして「いいんじゃないっすかねー」「そうするしかないっすよねー」とか、何かしらの同意を示す。
そういった細かな同意が上司に対する『下からの承認行為』となる。
家族的なコミュニティの中で「理解されている」「トップとして承認されている」という安心感を得ることが出来ると、上司だって気分良く仕事をすることが出来る。

何やら身分違いの思いあがった文章を書いている気分になってきたが、そうして上司が気持ち良く仕事が出来るようになれば、チーム全体の雰囲気が良くなる。
トップである上司がゴキゲンで雑談に参加すれば、もうそのチームだってゴキゲンなのである。
(普段からギスギスした対立がある場合を除く)

これは恐らく、皆さんにも同意いただけることだろうと思う。
チームを活性化していくためには、大前提として上司が活性化している必要がある。
上にもアプローチできる、とはそういうことなのである。

まとめ


コミュ障が中間管理職になって、初めてチーム内のコミュニケーションの重要性に気が付いた。
初めてこういった立場になった僕が個人的に考え、今後の課題とするべく、その役割を分析したものをまとめてみる。

「雑談で笑うこと」「他人からの承認を得ること」がチーム内でのコミュニケーションの重要な役割であるように感じる。
雑談という行為は、個人作業で凝り固まった心身をリセットする。
別の思考回路を刺激することで、徐々に低下するパフォーマンスとモチベーションを回復させる効果があるように思う。

また、雑談の中では、個人的に抱えている『小さな悩み』に対する細やかな承認行為が発生する。
これにより心理的安全性が高まり、メンバーが安心して仕事に取り組むことが出来る。
こうした細やかな承認行為は「感情ベース」の思考が強い組織ほど重要性があるように思う。

また中間管理職は、チームに対する責任を上司と共有する立場である。
トップとなる上司に対しても「雑談による同意」を示すことで、『下からの承認行為』を示すことが可能な立場である。
全体の雰囲気を変えることが出来る役回りであり、その振る舞いが良くも悪くも全体のパフォーマンスに影響する。

これは多分、業績の良し悪しや会社の将来性にも結び付いていく。
この感覚は平社員だった頃には感じられなかった。
再三言うと僕はコミュ障なんだけれども、こういう立場になったことは本当に勉強になるなあ、と思っている。

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