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固有名詞の恋/花束みたいな恋をした

初めて恋愛映画で号泣した


公開当初(高校生だったのにも関わらず)、「あーはいはいエモいエモい」と半ばというか完全に穿った目で予告PVを見ていた映画「花束みたいな恋をした」を今更ながら見た。

そもそも「忘勿」がTikTokで流行りすぎて、何度も聴いたせいで「本当にこのハモリ合ってんのやろか」みたいな感じになってきちゃって、余計に遠ざけていたまである。ボーカルの女性、髪色維持するの大変だろうなとか。

しかも、キャストが私たち世代に刺さりすぎる菅田将暉有村架純。高校生、大学生なら条件反射で見に行くキャスティングだ。ちなみに山崎健斗と橋本環奈でも同じことが起こる。

そんなティーンエイジャーホイホイな風体に、当時洋画しか見ないというイキったこだわりを持っていた女子高生の私は、「泣いた😢」とストーリーに映画の半券をブーメランで載せる同級生を内心鼻で笑っていたわけだが、実際に映画を見た今だから言える。キャストもエモいインスパイアソングも全部、一部の若者たちを神妙な気持ちに陥れるとんでもない罠だったのだ。

そもそもそこまで穿った偏見しか持ってないのになんで見たんや、と思う人も多いと思うが、最近の私のマイブームが坂元裕二で、最近カルテットを見終わったので次の作品を探している途中にネトフリにおすすめされたからだ。

「え?!これ坂元裕二作品だったの?!見よーっと」。

単純である

結論から申し上げると、号泣した。ワンパターンな恋愛映画を元々好んで見ない、実写映画は軒並み冷ややかな目でTwitterに流れてくる批判ツイートを流し見していた私が、気づいたら涙を流していた。

決して、自身の経験を重ね合わせて傷心を抉りだしたわけではない。あくまで彼らの花束のような恋の散り際に、一抹の美しさと「愛情」を感じ取ったからである。

恋と情

一緒に生活していくうちに、生活リズムの違いから徐々にすれ違っていく麦と絹。浮気こそしないが、レスになりお互いの共通の趣味も昔のように楽しめなくなっていく。

何年も同じ家で暮らし、そこにいることが当たり前になってしまった二人にとって、学生時代のような甘酸っぱい「恋愛感情」は燻ぶったタバコの火のように消えかけていた。

しかし、口喧嘩のシーンのあと、絹は淹れっぱなしのポットを片手に「紅茶、苦くなっちゃったかも。」と麦に言う。それに対して麦は「これくらいの方がちょうどいいよ」と返す。

もし、普通の、それも付き合って日の浅いカップルが喧嘩したとして、放置された紅茶の味に気遣うだろうか。そんな紅茶にぶっきらぼうな態度をとることなく「ちょうどいいよ」と返せるだろうか。

二人にはもう、恋愛感情はない。しかし、こんなささやかな日常にも、二人の愛情、相手を思いやる気持ちは存在している。衝撃のシーンだった。

友人の結婚式に参列した時も、「幸せになってほしいんだよね」と呟く麦の姿が印象的だった。別に嫌いになったわけじゃない。騙されたり、裏切られたりしたわけじゃない。ただ、歩幅が合わなくなっていっただけ。歩幅を合わせる努力より、生活の目まぐるしさが勝ってしまっただけ。相手のことを「大切」に思う気持ちはずっと、存在するのだ。

あの頃には戻れないことを知るファミレスで、彼らはお互いにありがとうを告げた。ずっと一緒にいたかったはずなのに、どうしてこうなっちゃったんだろうと泣く二人に、涙が止まらなかった。

これ、恋愛至上主義で最後に必ず主人公とヒロインは結ばれて幸せに暮らすと信じている人には絶対刺さらないと思ってて。「なんで⁈結婚したいならすればいいじゃん」とか、「絹ちゃんほったらかしにして寂しい思いさせる麦くん最低」とか、そういう考えに至ると思う。

でも生活ってそんなに単純じゃなくて。誰かと一緒に生きるって全然簡単なことじゃなくて。男とか女とか関係なく、人生で自分が大切にしたいことの方向性が同じじゃないと、ちょっとのズレが許せなくなってくるんだよね。それが絹ちゃんが言う「生活のハードル」ってことなんだと思う。

最終的に二人は話し合いを終えてから3か月間、友達のように過ごした。そこには、長年培った友情のような、愛情のようなものが見えた。

「愛情」や「友情」っていう言葉には「情」という字が入っているけど、「恋愛」には入ってない。恋愛感情はなくても、長い月日を重ねて培ってきた「情」が二人の間にはある。相手のことを思いやる気持ちは、別れたとしてもあるんだろうなあと。ちなみに猫は長く過ごせば過ごすほど愛情が増していく生き物なんだそうですよ。バロンかわいかったな。

固有名詞の恋

あったかもしれない未来に思いを馳せて、腕に刻まれた前髪の後をぼんやり眺めながらああ夢かって気づくみたいな。ラ・ラ・ランド的な。そんな結末に私はひどく感嘆しじーんとしたわけだけど、これをよくある恋愛映画だと思って見に行ったティーンたちにはちょっと、理解不能なところも多かったのかなって。

実際、「サブカル」を象徴する固有名詞がまあ驚くほど出てきて、サブカルかじりな私にとっては耳を疑うセリフも多かったのだけれど。(まさかこんなメジャーな映画に、天竺鼠とか劇団ままごととか今村夏子とかが出てくるとは思っておらず)

これ、現実世界でもそういう界隈にいないとなかなかわかる人に出会えないもんだから、サブだけどメインな方のカルチャー(それこそWherever you areがバズった頃のワンオクとか聴いてた人たち)に触れてきた子たちにとってはチンプンカンプンだったと思う。(実際、麦くんも「ワンオク…はまあ、聴けます」と言っており、拒絶するわけじゃないけど別に好んでは聴かないかなみたいな反応をする)

まあだから、「運命じゃん」って感じるよね。本棚の中身が同じで、似た作家や映画が好きで、マニアックになっていけばなっていくほど、自分の半身に出会えたような悦びがあるんだと思う。

けどそれって反対に、その固有名詞たちを失ったとき、どんな風に関係を築けばいいのかわからなくなってしまう面もあると思っていて。実際に麦くんは仕事に忙殺されパズドラしかできない体質になり、今村夏子の「ピクニック」を読んでも何も感じない体になってしまったわけだけど、それが二人の関係の切れ目というか、繋ぎ止めていたものがホロホロと失われていく感覚があったんだろうなと。

ガスタンクの映画撮って、イラストを描いて、演劇を見に行く約束ができた麦くんが好きだったのになんて、頑張っている彼を前にしたら言えないよね。いや、言っちゃう人もこの世にはいるんだろうけど、それは自分が寂しくて構ってもらいたいだけの独りよがりな人だから。大切な人が頑張ってたら、応援する。そこに絹ちゃんの優しさというか、愛情が詰まってると思う。

これは自分の話になってしまうけど、実際に、一時期映画とか音楽とか服の趣味がすごく合う男の子がいて、定期的に会ったりしてたんだけど、どうしても恋愛感情が湧くことはなかった。相手が好意を伝えてきても、その気持ちは変わらなかった。

今まで、彼氏に自分の趣味を理解されない辛さとか、マニアックっていわれる孤独感とかから「今度こそ趣味の合う人をば」と思っていたのに、結局人が恋に落ちるのってその人が持ってるカードじゃなくて、人間性とか単純なロマンスだったりする。

自己紹介のその先に、どれだけの愛情が持てるかが長続きの秘訣なのだとしたら、まだまだ運命の人への道のりは遠いかも。。。なんて思った年末でした。

本当に坂元裕二の言葉は刺さる刺さる。野木亜紀子と同じくらいには好きな脚本家です。今はanoneをもう一度見返したい。


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