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大人になっても自分の不幸を親のせいにしていると、結局自分が大損するだけである


大人になっても親との関係に悩み続ける人は意外と多いようだ。ネットの掲示板でもその様な書き込みを目にすることが多い。

自分の親を毒親と呼んだり、親ガチャ失敗と言ったりする悲しい家族も頻繁に目にするようになった。


ところで、親との関係性について、東洋経済に以下の記事が投稿されていた。

確かに殴られるのは今の時代では虐待だ。

一方、アダルトビデオのくだりは気持ち悪いが見ないようにすれば良いだけではないかとも思えるが、とりあえず鈍臭いタイプの子なら一般的に経験しそうな項目が並ぶ。

・母親はいつも周太さんのことをけなし、否定し続けていたそう。
・さらに母親には、同じことを何度も聞いてくる癖もあったといいます。
・ずっと『(〇ちゃんに比べ)あんたはダメだ、あんたはダメだ』と言われてきました」
・当時の周太さんは、自分に自信をもてず、学校の成績も悪かったといいます。学校では周りの子どもにいじめられ、中学の頃は、蹴られたりトイレに閉じ込められたりしたことも。家にも、学校にも、周太さんの居場所はなかったのでした。
・父親にも問題がありました。冒頭にも書いたように、子どもの目の前で、アダルトビデオを見たりするのです。
・もしそこで周太さんが文句を言おうものなら、たちまち「平手打ちやグー」で殴られるのでした。

筆者もとても鈍臭い子供だったので、しばしばこれくらいの怒られ方をしていた。

時代背景的にも当たり前だったので、筆者は「過酷虐待」を感じたことはなかったが、その辺りは本人の感じ方次第なので議論から外す。


記事を要約すると「そのままの自分を認めてくれなかった親に対する不満が今でも残っていて、そのままの自分を認めてくれる大家さんに救われている」ということだろう。

周太さんはこれでハッピーエンドなのかもしれないが、筆者はこの終わり方では何も解決していないと思うので、より高次元の解決をするためにはどうすべきかについて論じる


もちろんヤバい親は存在する

社会を見渡すと、法を犯す者もいれば法を犯さぬまでも倫理的に許されない行動をとっている者は無数に存在する。

そのような「人として十分な教育を受けていない人」は一般に想像するよりも遥かに多い。

そのような人が力を持つ存在として含まれる集団に所属すれば、判断能力・思考力が乏しい価値観に振り回されることになる。

例えばそういう人が親なのであれば、日常的に低スペックないし論理なき感情論に従って生活しなければならないという生きにくい状況に陥るので苦労することだろう。

特に家庭においては自立するまでは従わなくてはならないので、本当に運が悪いと命を奪われたりしてしまうこともある。それは本当に不幸なことだ。


みんな変人・奇人

ところで、そもそも人は皆どこか変人・奇人な部分を持っている。

一般人は前述の教育不十分な層ほど不器用ではないため社会生活上うまく隠して生活しているが、至近距離で観察するとヤバい行動を垣間見ることがある。

これはさまざまな異性と付き合ったり、部活やサークルなどの継続的な狭いコミュニティ内で生活するとしばしば感じることであろう。

みんなどこかイカれている。

コレは自分自身も他人からそう見られているという点を含めて理解しなくてはならないことだ。

つまり親の質に程度の差はあることは事実だが、そもそも教科書的な親なんて滅多に存在しない。

クラスを見渡せばわかるように、特別な能力も優れた倫理観も持っていない有象無象がひしめいていて、それがそのまま大人になっただけなので、当然の話だ。

友達の親などが一見素晴らしく見えたりすることもあるかもしれないが、別の家の親なんて外向きの態度のほんの一部分しか見えないから比べても意味がない。

親も人間であり、聖人ではない。イカれた部分を持ってても当然。親に誤った期待をしてはいけない。それを理解する必要がある。

そもそも物心ついたらどんどん家庭から外に向かって動き出していくべきだし、親が嫌ならば尚更だ。


みんな学校でも社会でも攻撃されまくる

中高生になれば一般的に「いじめ」が発生するし、社会人になっても一般的に「パワハラ」が発生する。

最近は電子デバイスを使って記録を取りやすくなったので、攻撃された場合にその者を排斥することも容易になってきたが、人間は関係性の中に生きているので、必ずしも摘発できる状況とはならない。

この「自分は何も悪いことをしていないつもりなのに、なぜか攻撃される」という現象は残念ながらいつまでも日常的に繰り返される。

その理由も実は正当なこともあるが、身勝手なことも多い。自分に対して忠誠がなさそうに見えるとか、自分以外の人のことが好きそうとか、責任を押し付けたいとか。

社会ではこういう親よりも反撃しにくい敵がいくらでも待ち構えている。

要は、親がよかろうが悪かろうが、必ず別の敵に遭遇するので、みんな似たような苦しみを抱えて生きているということ。

自分の存在を否定され続けても自分で自分をを守り抜くという行動は誰しもにとって当然の行動なのである。


ずっと親との関係に苦しむのは、社会に適合できていない人

ネットの掲示板などを見ていると、自分が大人になっているにも関わらず、未だに「自分の親がこんななので自分は不幸」だと主張する人が多い。

そのような大人になっても親との関係を気にしている人は、社会に適合できていない人が多い

自分の人生を生きる中で友人ができたり、仕事仲間ができたり、彼女・結婚相手・子供ができたり、自分自身・家族を満足させられるだけの収入を得たりと、一般的には社会と自分との関係性が出来上がる中で自分の構成要素のうち親が占める比率が著しく低下するため、親の存在は気にならなくなる。

一方、いつまでも子供部屋おじさんをしていたり、家を出てはいるものの社会人として完成していない様な人は自分の構成要素が変わらず、いつまでも生活の中心に親が存在している。


自分がおかしい可能性もある

親ではなく自分がおかしい可能性も検討する必要がある

そもそも、やろうと思えば高校卒業のタイミングで実家を出ることができるのだから、親がよっぽど嫌ならそのタイミングで実家を出れば良い。他責思考の人間は散々文句を垂れながら実家で暮らしていたりする。

特に親にカネを出してもらって大学や専門学校に進学しているのに親を嫌っていたりするようなタイプは、親はさておき本人は間違いなく狂っている

圧倒的に依存しながらも文句を言うのは、甘え以外の何物でもない。


他責思考

高校卒業後は自分の意思で人生を選択することの連続となる。大学4年間で道を見つけ、一般的に30歳前後には一線で活躍するレベルに到達する。その頃には精神的・経済的に自立し、結婚して次の世代を育てる余力ができる。

しかし、それくらいの年齢に達してもなお、親を理由に自分が不幸になった類の話をする人も少なくない。

そういう人は、自分の人生を自分の責任で生きていない(他責思考)可能性を検討してみてほしい

自分に起こったことについて他人のせいにしていると、PDCAサイクルが回らないので、昨日と同じ今日をずっと生きていることになる。つまり、何も成長しないずっと能力が低いまま。なので、魅力がないし誰からも認められない

本当にこのPDCAを回せるかどうかが人生のカギと言えるくらい重要で、これさえ継続的に数年、数十年と回すことができれば、大抵何をやってもその辺の人よりも桁違いに成果を出せてしまう

反対にこれができないと、いつまで経っても鈍臭いままで、下手すると小学生くらいで成長が止まってたりする。

気づいたところからスタートすれば良いが、20代前半くらいまでに気づけないと人生を取り返すというレベルに達するのは難しいかもしれない。


他責思考の罠

例えば『周太はルックスもいいんだから、こういうおしゃれをしたらもっとモテるよ』とか、『きみは頭がよさそうだから、こういうことをしたら成功するよ』とか、自分を肯定するような言葉を言ってくれる。

周太さんのルックスや頭の良さについては筆者は知り得ないので、周太さんに対しては一切言及せずに一般論を書くが、こういう根拠のない聞こえの良い言葉にハマってしまうことは最も危険である。

一般的に、他責思考で生きてきた人は3分も会話すれば十分にわかる。自分主体の会話だったり、何も実績がないのに自分で自分を肯定してしまったり、一方的に相手を悪く言ったり、自分が傷つかないように色々と言い訳を織り交ぜたりする。

そして、特に自分がコンプレックスに感じている部分を中心に自己肯定を続ける。例えばルックスや頭の良さについて言及が多ければ、そこに重度のコンプレックスがあるのだなとこちらは察することになる。

筆者であれば、そういう人との関係を無難にやり過ごすために「君はルックスがいいね」とか「君は頭がいいね」とかとりあえず言っておく。そういう「嘘も方便」が理解できず、そのままこの言葉を受け取るであろうというのも織り込み済みだ。

言う側はこれで済むが、言われる側は本来はこの嘘に気づかなければならない

普通に考えてみてほしい。

ルックスが良ければモテまくってるはずだし、頭が良ければ東大やら京大やら、少なくとも早慶くらいには入っているはずだ。もちろん判断するための指標はそれだけではないが、ちょっと考えればわかることだ。

上っ面の他人の言葉なんて信じず、客観的に判断した方が良いが、他責思考の人は人間関係の分析が甘いので、本当にこの罠にハマりやすい


自責思考

自分に起こることは事故や病気などの対策不能なアクシデントを除いては自分の責任であると考える。これが自責思考だ。

親との関係なんて本質的には18歳頃に切れているのだから関係ない。いつまでも言い訳に使わない。

誰かに嫌なことをされたら、そうならないために何ができたか、何が足りないかを考えて成長すべき。

褒められたいなら褒めてくれる人を探して褒めてくれない人を否定するのではなく、褒められるレベルの成果を出すこと。何もないのに他人を認めさせようとするのは、泣き喚く赤ちゃんと同じレベルだ。もはやいい大人がそんなことをするならば、可愛くない分、赤ちゃんにも劣る。

どれも当たり前のことだ。

何もないそのままの自分を認めろなんて、周囲に対する我儘でしかない。

自宅に営業マンがやってきて、ドロドロの臭い天然水を取り出して、「一応まだ飲めるんですけど、買いませんか?」と言われて買うだろうか?

自分自身がいらないものを選ばないのに、周囲に対していらないものを選ばせようというのは筋が通らない。


さいごに

傷つきやすい自分が傷つかないように生きて行く限り、狭い世界で色々なものを見ない様にして生きて行くしかない。自分の中での正論は自分の中でしか通用しない。

自責思考を持ち、傷つく覚悟でどんどん社会との交流を持ち、成長してゆくことが必要となる。

そうすればいずれ社会に適合し、狭い思考の枠組みから抜け出すことができるだろう。



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