*31 病は気から
病は気から、と言う言葉は屡「気の所為」というニュアンスで用いられる。私はそれに対して「いやいや体を病んでそれが気にも影響を及ぼすんだ」と、気は病からの方が正しいのではないかという持論を温めて来たが、この週まさに病を患ったのを機に、私は、病は気からの真意に辿り着いた気持ちになった。要するに病は気から、と言うのは気を滅入らせてそれが病を引き起こすという事であろう。
先週ウィーンを堪能した私は、堪能すると同時に未来人生におけるウィーンと私との距離が今よりずっと離れてしまう事に甚大なる喪失感を覚えていた。これについては全くの共感を望まない。生まれてこの方、受容の感を何処からも覚えず、何処に身を置いていても漠然とした疎外感を纏って生きて来た私が遂に辿り着いた心の安息の地がウィーンであり、そのウィーンが遠く離れてしまう心細さは、文章の上で意解出来ても、屹度その塩梅加減迄は伝わるまいと承知の上である。そうしてそのウィーンロスが起こると同時にもう一つ別の人生規模の喪失感を不意に被った私は、愈々全ての希望の灯が一度消えた真暗闇の沼に身が沈んで行く様に、生きた心地のしない帰路を電車に揺られていた。
人間誰しも二つもの希望を同時に失えば自然気も滅入る。気の滅入った所で私は何時振りになるんだか見当も付かない大風邪をこじらせた。
予兆は月曜日からあった。休暇以前同様に職場に向かい働いていたが、どうにも喉の調子が思わしくない。喋るにも食べるにも喉が邪魔になった。偶々喉飴が鞄に入っているのを思い出してそれを舐めたりしてみていたが、唾を飲むにも相槌を打つにも喉が軋んでならなかった。
翌日になると今度は鼻水もどんどん流れ落ちてくるようになった。慢性鼻炎か蓄膿症か知らぬが年中万全とは評し難い私の鼻であるが、こうも独りでに鼻水を流し落とす事は大変稀であったから直ぐに異常に気が付いた。職場の手拭きの紙でもって頻りに鼻を擤んでいたが厚手の紙では愈々小鼻が悲鳴を上げだしたからせめてもの救いに便所の紙に縋った。
症状は悪くなる一方であった。水曜日になると喉も鼻も酷かったが、仕事の終わり掛けには体も重たく感じて来た。共に終業となる予定であった見習い生のマリオに「悪いが今日は少し早めに切り上げさせてくれ」と頼み、やるべき作業と粗方の掃除を済ますと、最後の仕上げはマリオに任せて職場を出た。彼も私がゴミ袋を交換しようとすると、「僕がやるから早く帰るんだ」「健康が最重要だ」と協力的であった。
家に着いてから、洗濯だの郵送荷物の受取だのを済ませる必要があったからもう一踏ん張りしていると、次第に限界の二字が脳裏に浮かぶようになって来た。それら全てを片付けた後、薬を飲んで昼過ぎから夕方まで一眠りしただけでも随分な寝汗を掻いた。数年前にコロナ禍に備えて買った体温計の封を漸く開け、熱を計る。三十九度とあった。
ドイツに来てからも体調を崩した記憶は、少ないながらも幾度かはあった。然しこの時、さてこんな大崩れは何時振りだったかなと記憶を巡らせ最初に思い浮かんだのは、日本で働いていた時分の愛知の現場宿舎であった。
私はそれでまた無理矢理にサラダを腹に押し込むと、薬を飲んで直ぐに布団に潜り込んだ。流石に明日病欠を申し込もうかしらと過ったが、ただでさえ人手の不足している所で私まで欠いては気の毒だろうと薬の力を信じて眠った。
翌朝三時前に目を覚ますと、寝間着はじっとりと汗を吸って気持ち悪かった。体を起こす。昨日程の体の重さは感じられなかった。早速熱を計ると三十六度であった。我ながら驚異の回復力である。昨晩食べ切れなかったパンを腹に落とすと、また薬を飲んで出勤の支度をした。
その日、仕事中に再び薬を服用し、それで何とか遣り切った。元々熱に強い体である。子供の頃の私が四十度の熱を出した状態でも妙に元気だったと言う親の話が思い起こされた。薬の御陰もあってかその日は帰宅後もそれほど不調を感じず、引越の荷造りを進めた。これについては体調の良し悪しに関わらず進めねばならない要件であった。
金曜日、前日の復調振りに油断した私は薬を携帯せずに仕事に向かうと、途中からまた悪熱を感じ始めた。然し二日前に三十九度を体験したばかりであったから耐性はあった。それよりも連日日夜擤みっ放しの鼻がぼろぼろで其方の被害の方が甚大であった。
そうして土曜の休みまで何とか遣り切った私であったが、今だに本調子ではない。声は鼻に掛かるし咳もまだ出る。繰り返しになるが咳の出る感覚が全く新鮮で自分の体では無い様にさえ感ぜられる。何れにしても気の滅入った隙から体調を崩した。大変珍しい大風邪であった。それでいてやらなければならない事もあったから全くばつが悪い。
引越の荷物を順次日本に送り始めた。火曜日に二箱、そして金曜日に二箱それぞれ最寄りの郵便局から発送した。風邪もそうだがよりによって今週も来週も天気が頗る悪くこちらも大変ばつが悪い。実際月曜日の帰り道は雨にずぶ濡れて帰った。それもまた風邪を促進させたかもしれなかったが、兎に角私は雨の隙間を突いて郵便局まで荷物を運んでいく必要があってこれも厄介であった。
火曜日、第一陣の荷物を郵便局まで運ぶと、対応にあたった中年女性との遣取が妙に軽快であった。内容物の表記や送り先の住所の書き方などで問答のあった後、私が話の流れから不意に「引越の為なんです」と言うと、「あら、日本へ帰ってしまうの?あなたは確か、」と、ベッカライ・クラインのある方角を指差しながら言って来た辺り、ひょっとすると彼女も私がそこで働くパン職人である事を知っているらしかった。まあ小さい町の数少ないアジア人である。
それで帰り際、「だから今週来週でまた何回も大荷物を持って来ますんでね」と言うと笑顔で「問題ないわ、それじゃあさようなら」と見送ってくれた。
金曜日にまた顔を出すと「あらいらっしゃい、最初の荷物はもう届いたかしら」と冗談粧して聞いて来たから「そんな筈がありませんよ、最低でも一ヶ月は掛かりますから」と答えて、続けて「今日のは少し重たいですよ、十キロと二十キロです」と注意を促した。
十キロの荷物を計量すると五百グラムの超過があった。「あらこれじゃあ余分に御金が掛かっちゃうわよ」と言われた私が「それなら五百グラム分の荷物を抜きます」と言うと引き出しから鋏を出して貸してくれた。そうしている間にもう一つの荷物の手続きを進めていた職員が一通りの準備を済ますと「ちょっとこれは重たいから自分で運んで下さらない」と、二十キロの荷物を秤の上から裏へ運んでくれとお願いして来た。私は「勿論、御安い御用です」と言って運ぶと、荷物を詰め直した十キロの箱の手続きも済ませて、また来ますねと言って郵便局を出た。
移住して来た一外国人、と言うよりもこの町に暮らす一住人であるという感じがそこにはあった。それが妙に嬉しく思われた。そんな町に暮らすのもあと僅かである。仕事中にマリオがまた「あと幾日働いた僕らはもう二度と会わないんだね」と冗談の積で言った。私は反射的に「そんな事は無い、何十年と経ったら屹度またドイツに来たら会える」と笑いながら言った。彼は彼で「それか僕が何時か日本に行くかもしれない」と言うから「それじゃあ職業訓練を終えて職人になったら来たら良い」と言って二人で笑った。冗談とも真面目とも、空想とも現実的とも解らない所で飛び交わされた言葉は、そのまま先週私の胸に生まれた喪失感にも同じ事が言えた。
何があったって人生には続きがある。
※この作品では一部実在しない表現/漢字を使用しています。
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