*20 いずれ菖蒲か杜若
花札の五月は菖蒲である。花札と言えば童の頃に父から教わって良くやったものであるが、菖蒲と桐の札は何時までも好きになれなかったのを、日曜の早朝、親族の寄合にビデオ越しに顔を出した時に不図思い出した。
聞けば皆あれを菖蒲と呼ぶが実際の所は杜若だと言う。どちらも菖蒲科の花で大変良く似ているからその内に混同されたんだと言うが、大変良く似ているなら菖蒲と呼ばれるところへ顔を出して、あれはその実杜若なんですなどと容喙しないでも良さそうなものである。
そこへ持ってきて今度は杜若に充てられた杜若という漢字は、なんでも元来は藪茗荷に充てられた漢字であったのが混同されて杜若の所有になったという話である。全く曖昧たる植物史である。然し藪茗荷のその憫然たる運命を想ってか想わずか、与えられた花言葉が報われない努力だと言うんだから、是に限って言えば褒められべき先人殊勲のユーモアである。
ビデオ通話を終えると日曜はそれからパンを焼いた。以前にも焼いた事のある私が最も好むライ麦のパンを少し改良しようと試みた。ライ麦を挽く手間を軽減しようと粉の配分を弄って拵えた生地は、想定よりも随分柔らかくなった。
生地が上手くいかなかったからと言って失敗と断定するのはことライ麦生地においては随分な気の逸りである。生地が硬ければ水を足し、柔ければ粉を足してどうにでも調整が利く。この時も余計に粉を足して何とかしようと試みはしたが、かと言って闇雲目一杯に足して生地量が倍になっても背負がないから、まだまだ柔かった生地を無理矢理に丸めて型に押し込んだ。どんなに柔くとも型に詰めてしまえば後は型の成る様にしか成らない。果たしてパンは美しく焼き上がった。
味もまずまずである。まずまず、と言う事はこれまた改良の余白である。実際生地が緩かったのも、酸味が稍強かったのも、源因は一所にありそうであったから手直しの目処もすっかり立った。
その二日後には向日葵の種を練り込んだライ麦パンを焼いた。昔の職場で日夜焼いていたのを模してみたのは、久し振りに発酵の加減を見極める己の目を試験したくなったのである。
当時このパンを二十も三十も同時に、平ぺったく焼いたり反対に風船の如く焼いてしまったり、売物にならない散々な失敗を繰り返した。発酵の博打性による快楽に魅了されたのもそれが故である。発酵の見極めを誤って駄目にしてしまった時は胸を潰し膝を崩すが、寸分違わぬ刹那に窯に入れ、手本の如く焼き上げた時などは方々に見せびらかしたくなるほどの喜びがあった。その興奮と感動歓喜が即ち博打性である。
それでこの日はどうだったかと言えば、数値にして六十三点を付けた。満足納得とはいかなかったがパンとしては決して恥ずかしくない恰好、という具合に焼けた。ましてや食べる分にはまるで申し分なく旨かった。
成功と失敗の二極的思考では今度のいずれのパンにおいても失敗である。それでは可哀相。ところが点値で計ればいずれも過半を越えた立派なパンである。これが妥協で、職人ともあろう者がこういい加減じゃけしからん、厳しくなさいと一蹴されるならそれで結構である。資格など有っても無くても私はパン職人であり、下積み中の修行僧の自負である。人間に命を捧げる家畜も命なら、パンにも命が宿ろう。只愛玩的に命をコントロールし一極的に愛でるは利己的な愛である。利己的な目に都合の悪い所は映らない。都合の悪い所が捉えられない目には良い所でさえ正しく映らない。パンというものは何処までいっても食料であるから、食料として見て愛でてやらぬ間はエゴである。
六十二点と付けられたパンには即ち三十八点分の不足があると言える。これを伸び代だと解釈すれば減法によってそれも点値化される。それでは六十二という数字はこのパンの有する褒められべき点であるんだとわかる。分かったら六十二点分褒める。不足も含めた百点分を受け容れ、そして全部を褒めてやるのである。素敵、素敵と褒めるを忘れ、好きだ好きだと己の気持ちばかり言うはこれ己を慰める為であり、情愛の表現に於いて書いて字の如く手抜きである。私の焼いた何れのパンも不足はあれど立派に食料である。立派ではあるが完璧ではない。人間同様完璧などは理想であり、それでいて理想に向かって精度を高めんとするがパン作りである。
近頃の私は些か傍若無人であったと省みる。気を荒ませていたのは事実でも、妙に我儘がっていたのもまた事実であった。酒も頻く飲んだ。酒という物はこうして字に起こして、御負けに頻く飲んだなどと付けて見ると毒薬の様に映ってしまうのは時として厄介であるが、今週に限って言えば毒薬らしい一面が露呈し、愈々私は暫く酒を抜いてみようか知らんと思うに至った。
元来が酒豪で無い私は飲むと言っても高が知れている。それでも今週だけで二回、酒を飲んで眠った夜中に目が覚めると――睡眠が途切れるのは酒の有無に限らず日常であるが――音が聞こえる程に心臓がばくばくと暴れていた。恐怖に怯えた時の様な、得体の知れないαから全力疾走逃げた後の様な、只ならぬ鼓動を私の胸の内に轟かせていた。その内一度は実際夢の内で何かから逃げ回った覚えがあるが、無論目が覚めても体は横たわったままであったから不思議である。夢に怯えたんだか鼓動に怯えたんだか、私は二度の恐怖体験を経て酒を少し離す事にした。
それと殆ど同時に、肉を食いたい様な気も起こった。それで不断、思想や信念の云々があるわけでも無いが殆ど食う事の無い肉を真剣積極的に食ってみる事にした。体が要らんと言う物は摂らず、体が要ると言う物を摂るんだから体も素直に栄養を吸収する筈である。そうして考えると近頃の気の荒みと体の因果の影も伺える。それを経て不足した活力を満たそうという体の魂胆かも知れぬ。私は只それに従うだけである。
「再来週、君、土曜日に休みをやろう」とトミーが私に言って来た。ある程度皆が平等に土曜休を取れるようにとの配慮であった。確かに暫く土曜の休みは無かったかもしれない。
土曜が休みになれば土日と連休になる。また金曜の昼に仕事を終えるから午後から時間が出来る。さて何か出来るかなと作業をしながら考えを巡らせた。そうしてリンツの外れにパンの博物館が在って、いずれ時期を見計らって行きたいと考えていたのを思い出した。多少掛かる旅費を渋って止めようかとも一度思ったが、パンの博物館を見ておく経験に金を支払う積で、私は直ぐに諸々の予約を済ました。こちらは体では無く、近頃の疲労鬱積を慰安しろと言う運命の魂胆だとすれば、まあその積でも逗留するには絶好である。
見習い生がまた工房へ戻って来た今週は、近頃の我儘を自省した私の気の持ち様の変化も相俟って比較的穏便に仕事を熟せた。先週迄の私であれば業を煮やしそうな場面でも然して気にもならなかった。悪い時期があれば良い時期もある、とは私が尊敬したマイスターの口癖である。それに則ればこれから屹度良い時期に向かう巡りなのだろう、幸せは必ず来る、とは杜若の花言葉である。杜若と言う漢字が藪茗荷に残らなかった曖昧然たる植物史にここで救われたといった形である。
※この作品では一部実在しない表現/漢字を使用しています。
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