*36 暮らした町、残る足跡
誕生日の当日に町を濡らした雨は些か心地良かった。心地良かったと言っても我が身迄濡らす用事の特になかった私は、ドイツでの仕事を終え、残された僅かな有給休暇の余韻の中に依然として身を横たえていた。最後の仕事日であった金曜日からこの月曜日まで、私は八年半に渡るドイツ生活においてこれ迄味わった事の無い程の心地良さを、その横たえた体に感じていた。眠れど寛げど心の休まるのとはまた違ったこれ迄と比べて、この日は何をするにも、また何をしないにも心が安らいでいた。仕事上の責任の無い解放感か、ドイツ生活佳境が故の興奮か、何れにしても仕事や生活や人間関係における達成感の類があったであろう私は、せめて誕生日を口実に月曜日まではこの安寧を意識的に保つ事にした。これ程穏やかな瞬間は九年目にして初めての事であった。
この週の土曜日にミュンヘンへ走り、かつて世話になったマイスターのレアードを訪れる予定でいた私は、この月曜日にまたもう一人別の旧い同僚にも連絡をしてみた。このスティーブンという男とは当時まるで兄弟の様な関係で、それなり好き勝手言い合ったりしていた。生意気な態度も取ったが、その職場を辞める日には肩を組んで写真を撮った。然しそうかと言って肉刺に連絡を取り合うでも無かったから、さてどう云った文面にすべきだろうかと少し手元を牙骨ながらせて、漸く納得の文章を書く迄に案外時間を要した。時間が経てば何でも腐る。人と疎遠になる仕組みはそれなり理解している積である。
暫くして届いたスティーブンからの返信は予想外にも、電話出来る時間があるか、というものであった。私は別段用事も無かったから、今でも構わないがと返事を送ると、直ぐに彼の方から着信があった。画面越しに、二年半ぶりに顔を合わせた。
「誕生日おめでとう」と開口一番言うなり、「おい何だ、随分髪が長いじゃないか、何があったんだ」と私の髪を指摘した彼の頭は相変わらず綺麗に何も無かった。彼は自分でその滑やかな頭をランプの如くに撫で回しながら何時までも髪の長さに言及するから「私もその内君みたいな頭になるから今の内に遊んでおくんだ」と投げやって、そんな事より近頃調子はどうなんだねと話頭を次へ捲った。仕事の状況はさて置き、懐かしの同僚達は皆まだ元気で居るらしく安心であった。
「それで今週の土曜日なんだが」と切り出したのはスティーブンの方であった。「是非とも行きたいところなんだが、生憎にも今休暇中で、週末には地元の実家へ帰るから行けない」という理由で、文字ではなくテレビ電話で連絡を返して来てくれた様であった。「それは残念だ」と返事をする。残念である事は間違いないが、久し振りに顔を合わせて話せた事は粋純に嬉しかった。唾液の代わりに接着剤でも分泌されている様などんねりした喋り方に知り合ったばかりの頃は戸惑ったものであるが、一切の難無く会話を成立させている事が何とも心地良かった。
最後に「日本に帰っても連絡は取れるだろう」という確認をしあって電話を終えた。今日のこの日が無ければひょっとして日本に帰ってから彼に連絡を付ける事など無かったかもしれない、などと考えた時、彼に連絡を取った数時間前の自分を褒めてやりたくなった。そしてまた、土曜日に実際会うレアードとの予定も一層楽しみになった。
寛ぐのは月曜日迄と決めていたが火曜日になっても心は健やかであった。然しそれでいて片付けなければならない物事を蔑ろにしているでもなく着々と手を付けていっていた。ともすれば私の感じていた安寧というのは、怠惰や無精と異なる本来あって然るべき人間の生きる心地であったかもしれない。社会から放たれ自然に還った生物的解放感がその正体であったかもしれなかった。
ベッカライ・クラインで働き始めた日本人が、私の住む借室も引き継ぎたいという話であったから大家との間で梯を担ってきたが、愈々今週になって三者面談の場が設けられ、話がまとまり漸く私の肩の荷が降りた心地であった。ある程度の家財道具も譲り渡せるという事で、御陰で厄介な処分の手間も省けたから、譲渡価格もそれなり手加減して見繕った。
水曜日になると数日振りに空が青くなった。青くなった空の下を自転車で行く。ベッカライ・クラインの本店で販売婦達と最後の記念写真を撮る約束を付けてあった。
本店に到着すると全くの予定時刻で「あら随分正確ね」とバティナが煙草に火を点けつつ迎えてくれた。本来休みであったジェシーも、この日は工房で働いていたマリーも既に揃っていた。
中に入るとマヌエルとペティが接客にあたっていた。客の脇を通って奥へ進む。工房の鍵を返す必要があった私は一先ず二階へ上がって事務所にいたシェフの元へ顔を出した。
鍵を返して降りて来ると、バティナらも店内に戻って来ていた。「何か飲む?」「あら彼は何時だってカプチーノよ」と販売婦らの中に笑いが起こる。その後ろで「もう作ってるわよ」と、私が注文するよりも先にカプチーノ作り始めていたのは何時も通りマヌエルであった。
「シェフも降りて来ると言ったから彼を待ってそれから写真を撮ろう」と呼び掛けた所までは良かったが、二十分と経ってもシェフは店頭へ姿を見せなかった。変に間延びもしていたから「それじゃあシェフはまた別で、一先ず私達で撮りましょうか」と言うと、その声を待っていましたと言わんばかりに賛同の声が上がった。この日も持って来ていた三脚を店内に立てると、皆でカウンターの奥に並んで写真を撮った。
撮り終えるのと同時に入って来た婦人客が「あら私も入れて貰えないかしら」と言って皆笑った。ドイツらしいこの人との距離感も残り僅かだと思うと名残惜しい。そうしてマリーとバティナ、ジェシーの仕事を終えた三人が帰る時、その帰り際に抱き合って別れの挨拶を交わした。
残ったカプチーノを飲んでいると、その内、若チーフのマリアが旦那のベニーと共に店頭に顔を出した。「ハイ」といつもの様な挨拶で入って来ると、それから少し話した。日本に帰る迄に済まさねばならない事や日本に帰ってからの具体的な予定や計画を大まかに話す。それを否定もせず御節介な助言も加えず、ただ「良いじゃない」と聞く姿勢は、他人事と割り切った上での優しさである。ドイツにあるこの感じは実に心地良い。相手の存在を意識しその相手を尊重したこの親身な姿勢を、干渉のない海外特有の個人主義と評するは読解の誤りである。
散々喋った後、漸くシェフが降りて来た。悪くした足を引き摺りつつ、それでも私達は店の外へ出て、本店を背景に記念写真を撮った。そうしてまた彼女らと抱き合って最後の挨拶を交わした。今度はマリアも泣かなかった。
「もし万が一日本の生活が気に入らなかったらまたここへ戻っておいで」とマリアが言ってくれたのは半分冗談でも半分は本心であっただろう。私も「その可能性も大いにあるな、その時は宜しく」と冗談半分の本心半分で返した。その内私達も日本に行くわ、とも言った。彼女らの事なら本当に来そうで未来の楽しみが植わった。
時間は進み愈々九月に突入した。大慌てで役所に書類を申請したり、随分前から出動要請をしている電気工事士が一向に来る気配が無かったりとそれなりばたばたとしているが、九月の一日はアンドレの仕事終わりに合わせて町へ出て二人でビールを飲んだ。午前九時から昼過ぎ迄飲んだ。彼は十二杯も飲んで最後にはふらふらと陽気になった。その際に私が描いた絵もプレゼントした。最後にまた拳を合わせ、或いは掌を併せてそれで別れた。この縁も特別である。特別であるが不思議とその内また会う日が来るように思われた。アンドレに限らず、販売婦もマリアも工房の仲間も、である。
土曜日、ミュンヘンを訪れ数年前当時のマイスターと遂に面会した。見た目こそ変わっていなかったが、久し振りに耳にした彼のドイツ語は幾らか聞き取りずらかった。間もなくして元同僚の友人も到着すると、カフェのテラス席に着き二時間と話し込んだ。
懐かしい話もあれば、新鮮な話もあった。これまでの話もあれば、これからの話もあった。然し話の内容云々にかかわらず、こうして一つの再開を果たせた事が嬉しかった。
最後に手を重ねて挨拶をした。見送ったその背中は、工房で見ていた貫禄のある製パンマイスターと言うより、ただ一人の一般のドイツ人であった。またそういう人間と出会い関わりを深められた事は大変嬉しい事であった。
彼を見送るとトラムに乗って友人宅へ向かった。このルートでこの家を訪れる事も最後である。駅では旦那が待っていてくれた。
時刻は夕方。日はすっかり短くなった。もう夏もおしまいである。自家製のフラムクーヘンを戴きつつ、沢山の話をした。私が今考えている、この先の予定に幾らか変更を施したい、細かく言えば多少の“遊び”の薦めを私は真に受けた。確かに人生において社会を外れて自由がきく時間は俄然少ない。私は決して悪くないアイデアだなと、ワインと共に飲み込んだ。
暫くして私の誕生日ケーキが運ばれてきた。全く知らずにいた私は驚いた。そして何年振りになるか知らん蝋燭を吹き消した。嬉しかった。
人との出会いは不思議である。然し出会い以上にその後の発展も不思議である。約束も出来ぬ。約束の要らぬ発展もある。発展の先に到達すれば、過去の経緯が証明される。経緯は前以て準備の出来ないものである。私を受け入れてくれた街と人々とも約束の無い経緯を紡いできたが、残された足跡は未来永劫深々とある。
※この作品では一部実在しない表現/漢字を使用しています。
(※1)レアード:以前働いていた職場の製パンマイスター。/参照記事
(※2)スティーブン:同じく以前働いていた職場の同僚。/参照記事
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