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*3 クラップフェンを揚げながら

 今週も例外なく頭は一月に居なかったもんだから一所懸命にぐるぐる働いた割に日はまだ一月の折り返し地点にようやく届いた所でまた拍子抜けした。まあさっささっさと足早に過ぎてしまうよりはぽど良いから是非ともこの調子で二ヶ月くらい掛けて一月を終わりにして貰いたい所であるが、そう期待した途端天邪鬼になって加速していってしまうのが時の無常さである。高校三年も暮れようとしていた時分、不図ふと突然、戻る事も止まる事も無く前へ前へと進んで行くばかりの時間という物が恐ろしくなった事があった。柱にしがみついても後ろ向きに歩いても時間は進んで行くと言う事実が輪郭リアリティを持って視界をぼやかした時、時間が待ってくれないのなら自分が先回りするまでだという考えに至った当時の私の名残が未だに作用して、昔取った杵柄、それでこうも頭だけで先を先を急ぐのだろう。
 
 
 然し傍からしたらただ曖昧模糊に忙しがってるばかりに見えるかもしれないから具体的な話を少し出すと、今週は借金の返済に手を付けた。いやいや借金と言っても馬だ玉だの博打と一切合切無縁の、マイスター学校に通う際の学費援助の事である。これが結論ほとんど無償になるんだから尚安心していただきたい。
 
 ローンの返済が今年の十一月から始まると言う通達を過去に受けていた私は、調べてみた所、前以て一括で返済する事も出来るんだと知った。大凡七〇〇〇ユーロ現在約97万円の学費の半分をドイツ復KfW金融公庫から借りた私であったが、マイスター試験に合格する度にその返済額が折半されていった御陰で、結局大凡一三〇〇ユーロ現在約18万円にまで減った。おまけに八月にはマイスター試験合格を祝して国だか州だか市から祝金二〇〇〇ユーロまで戴いたんであるから全く無償である。金を借りると言う経験に素人であった私は助成金を申請した時からマイスター学校在学中に至る迄常々気が気でなかったが、こうして一通り過ぎた所からその全貌を見渡すと、当時の漠然とした不安感を常に纏っていた自分の背中を撫でてやりたい心持ちである。
 
 こうしてよしまとめて返そうかと意気揚々オンラインバンキングを開いた私であったが、ここでまた心配症が疼いて、万が一間違いがあって私の一三〇〇ユーロが複雑に絡み合った回線の何処か私の手の届かない所に迷い込んでしまっては困るからと、一先ず三〇〇ユーロを振り込んで様子を見ることにした。様子を見るったって指定の口座目掛けて送金するんだから心配に及ばない筈であるが、どうにも目で見えず手で触れえぬ物にはなかなか安心が出来ない性分なので、まあ今週は特に動きが見られなかったから来週には是非とも無事三〇〇ユーロの返済が果たされていて欲しいものである。
 
 
 それからもう一つ具体的な未来の話は七月にあった。先日プラハに行った際、八年来になるイタリア人の友人に帰国の件を告げ、そうして最後に休暇を合わせて是非旅行をしようと言う話をつけてあったのである。それの計画を互いに連絡を取りつつ進めていた。当初はイタリアのポルトフィーノが候補地であったのだが、余りに豪奢ゴージャスの極たるバカンス都市であったから「私達はVIPではないからな」と断念して、別の候補地を探そうとなったのが今週である。何れにしてもドイツにいる間にもう一度だけイタリアの空気を吸っておきたいという私の意向を伝えて、遅くとも二月一日には色々と予約をしようという所で一段落になった。

 そうして頭をあっちこっちへやっている暇がありながらも決して無職者ではない私は工房に入れば当然頭はまた手元であり足元である。今週アンドレが休暇から戻って来たからまた全員が揃ったわけであるが、今この週末になってこう書いてみて、先週アンドレ不在で働いていたのが例によって随分昔の事の様に思われた。
 
 
 通常の製品に加えてクラップフ※1ェンがいよいよ本格的に焼かれ始めた。焼かれ始めた、と言うと他人事の様であるが私の役目であった。そしてまた焼かれ始めた、と言ったが製法に忠実に言えば揚げられ始めた、である。一八〇度に熱された澄ましバButterfettターの独特な油臭さにはパン屋特有の季節感があったが、ひとえに風流がるわけにもいかず、作業着も髪も、ひいては工房から一続きの更衣室の私服にまで匂いが移るんだから厄介である。その煙源えんげんであるフライヤーFettbackgerätの前に立って、ふわふわと脆く膨らんだ生地をそうっと油に浮かせては蓋をして閉じ込め、四分間別の作業に勤しんだ後、タイマーのピピピに呼ばれて戻り、蓋を開けては端から引っ繰り返し、また四分間その場を離れた後にもう二回表にしたり裏にしたりして油から上げると、次の生地を油に浮かべ蓋をしたなり、今度は揚げ上がったクラップフェンにジャムを詰めてとしていたのが私である。こればかりは自室でなかなか出来る物でも無いから、工房でしか経験出来ないと言う点において私は割と好きな作業であった。
 
 同じ日に同じ油で同じ様に揚げていても、さっきのと今度のとで若干焼き色が違っていた時、さて果たして何がこの差異の違いかななどと考えていた。また発酵した姿がすっかり醜い生地があった時、ああこの原因は生地を作った際のあれに違いないなどと原因を追及していた。今週に限って言えば私はただ焼くばっかりで、生地を仕込むのも発酵させるのも別の人間がやっていたから全ての因果を紐解けるわけでも無かったが、焼く時に、もとい揚げる時に観察するだけでも、推測出来る事はある程度あって面白い。そんな事を考えていると、前言撤回、自室でも出来そうだなと思えて来た。或いはやってみたくなった。丁度良い事にシュトレンを作った時に買った澄ましバターが冷蔵庫に入っている。生地を作る事については微塵も問題点を含まないし、あと必要なのは激烈な油の匂いが部屋中に蔓延し、寝床も衣類も何ももが油臭くなる事に対する覚悟のみである。これが最も大変である。

 先週の日曜に焼いたKörnerbrot穀物のブロートがまだ小さい冷凍庫を埋めていると言うのに、週半には相も変わらずクロワッサンを焼き、週末にはカイザーゼンメルとバゲットを焼くつもりでいる。消費のスピードを考えるよりも好奇心が勝ったわけである。散々パンを焼いて来て今改めて沸いた好奇心の矛先は昨年末に買った製パン道具を試してみるという所にあった。実を言えばKörnerbrotも、その時に新調した長形の発酵籠を試すのに焼いたのである。これは大変満足な焼き上がりであった。
 
 クロワッサンも詰まりは新調した道具を使いたかったのである。これまで生地を伸してから寸法を測って手で切断していた所を、麺棒の要領で生地の上を転がしながら三角形に切れるという道具を買ってみていたからそれを使ってみた。成程、面白かった。理想的とは言い難かったが、使い様でもう少し可能性は広がりそうである。然しここの所く焼いているクロワッサンであるが、この時は趣を変えて生地の中にハムとチーズを巻いて焼いた。

 それからさらにカイザーゼンメルも、これまでの手折りを一度止めにして押し型を使って焼いてみようと思った。規模こそ違うがパン屋では押し型が主流であるから、自室でいい加減眩暈のするくらい美しいカイザーを焼いてみたくて試そうと思った次第である。然しこれとバゲットは土曜に中種やらポー※2リッシュをこしらえて日曜日に焼こうという計画であったから、焼き上がりを見せられずに残念である。いずれにしても新しい遣り方を試すのはいつでも面白い。例え傍からは同じ物ばかり焼いている様に見えても、繰り返している内に新しい発見が大小あれど絶えず潜んでいるものである。

 失敗は成功の母とは言うが、それなら挑戦とか試行が成功の祖父母にあたろう。さらに家系図を遡れば好奇心だとか衝動が曾祖父母である。横に拡げれば意義や経験なんかは成功の伯父だか伯母であろう。何かしらの発想や計画が閃いた時、それを実行に移さない以上、血筋は絶え、詰まる所折角閃いた衝動アイデアは身寄り無く一人静かに最期を迎えるしかないのであるから、思い付いてしまったからには是非積極的に子孫繁栄に励みたいものである。無論製パンに限った話ではない。今年の私は主にそんな事を心得て過ごして行こうと考える次第である。



 


(※1)クラップフKrapfenェン:別名ベルリナー。ドイツのジャム入り揚げパン。
(※2)中種やらポーリッシュ:どちらも本生地よりも前に粉と水とイーストを混ぜて発酵させておくパン種。

※この作品では一部実在しない表現/漢字を使用しています。


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