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*5 アップルパイ

 林檎の葉を摘む。これを葉摘はつみと言うんだと畑に来てから教わった。余分な葉を摘んで、林檎の実に日光を当て、実の色付きを促すのが目的だそうだ。品種によってその葉摘の回数も変わると言う。最近買った食材大全という立派な本で林檎の項目ページを眺めてみると、葉を摘まずに育てる葉取らず林檎という物もあると言うから、それは一体どうしてなんでしょうと仕事の合間に林檎農家の方に聞くと、色を付けるよりも蜜を入れる事を極端に重視したやり方だと教えてくれた。すなわち林檎の蜜を入れるには葉が必要と言う事になる。それで葉摘は時期を見計らって幾度かに分けて行うんだと言うから、成程なるほど、農業という物は自然の働きのようで人の手の加え方次第である程度意図的に調整が出来る様である。まるで矢ッ張りパン作りに似ている。
 
 
 先週初めて林檎を収穫した時―あれはシナノスイートという品種であった―樹木を離れて我が手に納まる林檎を見て、これが生命か、と感じたが、その赤い実に私の生命を重ねて見た時、製パンマイスターを取得したとは言えまだまだ葉摘の段階でありそうだと思った。
 
 実は付けた。八年半に渡るドイツでの修行で技術や知識は身に付けた。パン職人としての実である。しかしまだ日は浴びぬ。日の目を浴びねば青いままである。青い内は葉に隠れて見付からない。そのに蜜を蓄えるのであるならば、私の八年半はまさしく蜜入れに徹した。そうして日本に来て、少しずつ葉を摘んでいるのが今である。大変地味で地道であるがは入りつつある。先日のイベントで出店した時もまさに陽の差した瞬間である。頬が赤く色付いたが、あれは果たして日光によるものなんだか気合いだか照れだか風邪だか一向に判然としないまま、それでも帰ってからぐたりとまた青くなった。
 
 
 病み上がりの月曜日はもう少し休んだ。鼻と咳と口の中が本調子とは思われなかったが、その反対、体は随分活力にみなぎっていて困った。それで林檎畑から戴いた秋映※1があったからアップルパイでも試作しようと、一先ず生地だけ作る事にした。
 
 翌日、午後に免許センターへドイツ免許を書き換える用事があった私は、午前の内にアップルパイを作った。上手く出来ていれば林檎畑へ持って行こうとその日の内に五つだけ焼いてみたが、果たして大変満足のいく出来栄えになった。そうして成形迄済まして残った十四個は冷凍し、水曜日に焼いて畑の方々に振る舞った。秋映はアップルパイに向いていると教えてくれた畑の担当者からも好評であったから安心した。

 製パンマイスターの資格を引っ提げて帰って来たパン職人の私は、何もパンを作って売るばかりがこの資格の使い道とははなから思っていなかった。無論、売るも大事であるが、こうして自分の手で作ったパンを人に振る舞って喜ばせるというのもまた嬉しかった。あるいは甥やら姪やらとピザを作った去年の夏も楽しかった。私が取得した資格の、もとい修行した八年半の意義の半分は非営利のそれである。
 
 週の暮れには、売れ残ったからと立派な秋映を大量に戴いた。元来果物フルーツを滅多に食べない私も先ず林檎への愛着が生態の理解と共に深まっていたから、売れ残った林檎を、また手元に貰ってもまた余らせて腐らせてしまいかねない林檎をどうにかしたいという気が起こった。次のイベントがまた一週間後に控えているから、今度は生産者からも好評を受けたアップルパイをプレッツェルと並べようと思った。

 そうして林檎の消費を考えている所に、到頭とうとう出荷許可を申し込んでおいた道の駅からの連絡が届いた。申し込んでから彼是かれこれ三週間近くが経っていた。しかしもしも当初の私が希望的に立てた計画通り、三週間前からパンを焼いて道の駅に並べていたとしたら、屹度きっと私は林檎畑に足を踏み入れる事は無かったに違いない。葉摘の絡繰からくりや林檎の品種なんかも知る由も無かったであろう。そう考えれば、全く人生は何処で豊かになるんだか予測も立たない。私と言う根に施された幾種もの接木つぎきが一つの木と成り、其々それぞれに栄養分を持ち寄って一種の実を実らせるといった風である。
 
 ドイツに居た頃に見て回った欧州ヨーロッパ各国の景色も、一つの経験として我が根に木をいでいる。思い出に変わった色々の記憶が養分として実に運ばれていく。その内にイタリアで食ったフォカッチャが思い浮かんで、よし作ってみようとインターネット上、イタリア語でもってレシピを探した。
 
 
 生地を起こす前に選り好んだレシピ、手順を翻訳する。手元の物と異なる材料は矢張りあったから、その誤差は経験で補填して、その上で過程の内に変な所が無いか確認する事にした。第一、気候や文化や国民性の異なる地で本物オリジナルと同等な物を作り上げるは不可能であるから、今更材料の微差など有って無い様なものである。
 
 それこそミラノでフォカッチャを食べた時に、レシピの再現は何処でも出来るが本物オリジナルは本場にしか存在し得ない、と改めて考えを固めた。たとえ正しい材料や相応しい機材を集めても、気候や風土、文化や国民性迄再現出来なければ、矢張りその分本物オリジナルとは異なってしかる。地球は案外広い。此方こちらの街と彼方あちらの国では、座って想像の出来るより以上の風土の違いがある。その土地の風土が住む人間の国民性をあやつり、その人間が己の生命に合った衣食住を創るんだから、そうした起源ルーツないがしろにしては無礼というものである。何も本場へ駆け付け本物オリジナルを知れと無理を強いるわけではない。如何なる万物にも存在する出生の起源をただ想い馳せるのである。

 仕込んだ生地が一晩冷蔵庫の中で眠っている内に随分体を大きくしていた。寝る子は育つとは言い得て妙である。ボウルを引っ繰り返して天板の上に移す。寝ている赤ん坊ならこの際に起こして泣かしてしまわぬよう、の如く慎重に生地を移す。他人行儀では良くない。
 
 寝かした生地に掛けるは玉葱たまねぎである。玉葱のみである。ミラノではトマトにオリーブに紫玉葱にと一つの生地に並べ飾った派手なフォカッチャを見なかった。トマトのみ、玉葱のみと言った純朴シンプルなフォカッチャに起源を覗いた。またそれで驚くほど美味かった。それで私は玉葱のみを記事の上に敷き詰めた。

 何もかもを商売の路線を走らせては品が無いが、果たして玉葱のフォカッチャは売るには至らない、それでいてまさか悪いとも評せぬ出来になった。売るに至らない、という寸評はすなわちミラノで食べた本物オリジナルと無意識中に比較してしまっている証拠であるが、これも一種の呪縛である。自分で食べるには、具として乗せた玉葱の塩気が物足りないより他に別段文句も無かった。
 
 
 フォカッチャを焼き終えるとアップルパイの仕込みに精を出した。今度の祝日に催されるイベントに向けた仕込みである。林檎を九個剥いてフィリングを作った。一人で働くには十分大量の類である。前日に仕込んでおいたパイ生地を冷蔵庫から引っ張り出して、結局六十個のアップルパイを仕込んだ。なかなか想像の範疇よりも骨が折れた。

  試しに焼いた四個を味見がてら食べる。生地の割合を減らし林檎の割合を増やしたのが顕著に、豊かな風味となって舌の上に表れた。十一月を間も無く迎える。屹度きっと忙しくなる事と思うが、心を亡くす事は無いだろうと、六十個のアップルパイを仕込み終えた余韻の中に確信した。
 
 


※この作品では一部実在しない表現/漢字を使用しています。


(※1)秋映《あきばえ》:長野県を代表する林檎の品種の一つ。


 

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