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*16 ユーティリティプレーヤー

 その日は強い風が吹いていた。雨も併せて舞っていた。いずれも私が仕事から帰宅したのちの事であったから安心だったのであるが、腕立て伏せやら腹筋運動やらを済ませ、台所で窓越しに暴風を眺めつつ昼食にパンを齧っていた時である。視界がふわっと、あるいはすとんと落ちる様に揺れたのである。私は咄嗟に台所の作業場の端を掴み、足を踏ん張った。地震が起こったのかと思ったのである。或いは余りの暴風が何処か隙間から建物に入り込んで部屋がふわっと持ち上がったのかと思ったのである。しかし結局そのいずれも起こってはおらず、消去法的に私の方に原因があるのだと悟った時、狐につままれた鳩が豆鉄砲を食らった様な感覚がにわかに私を襲った。
 
 そう悟った後一旦チェアに腰掛けて、今実際に我が身に起こった現象から原因を検索してみようと思ったのであるが、はて只今の現象を何と文字に起こしたらいいんだか要領を得なかった。地震が起こったものと思ったが実際には起こっていなかった、と言ったニュアンスの言葉で検索してみると、そこで眩暈めまいと言う単語やふわっとする、すとんと落ちると言った表現に出会った。出会ったは良いが、私の知っている眩暈とは様子が違ったから納得するのには少し時間を要した。
 
 子供の頃から貧血気味と言う言葉を背にしょっていた私は幾度か眩暈で倒れた事があった。その内の一度などは鮮明で、中学生だか高校生だかの時分、実家の風呂場で湯船から立ち上がると意識が遠退いて行くのが分かったのであるが、この幾度も繰り返して来た立眩たちくらみに何時いつまでもひるんでいて堪るかと向きになって、不断ふだんであれば直ちに湯船のへりに腰掛ける所を、立眩みにあらがわんと意思固く、朦朧とする意識に文字通り立ち向かった挙句、ごんという音で目を覚ますと風呂場の床に倒れていたと言うのがあった。それを眩暈と心得ていた私にとって、今週体験した地震の様な眩暈はすこぶる新鮮で、不安がるよりも先に新体験への興奮だか感激だかで鼻息を荒くしていたのが正直なところであった。
 
 
 検索結果にはそれなりに不安がるべき単語も並んでいたが、大方おおかた疲労かストレスが原因だろう、結局それ以来眩暈が起こる事はなかった。眩暈こそ起こらなかったが、休憩もせず夜中からずっと立ちっぱなしで肉体労働に精を出さざるを得ない近頃、腰への疲労の蓄積が愈々いよいよ無視出来なくなるまでになってきた。立ち姿勢を続けるのは腰をいわす要因だというのを俄かに信じ難いと思って来たが、成程なるほど実際に身を持って体験すると納得のいく論理ロジックが解った。何事も矢張り一見に如かずである。
 
 
 
 アンドレが有給休暇に入った今週、木曜日からはルーカスも休暇に入り、新工房は稼働して二週目にして二人を欠いた。さらに言えば製菓のシルビアも休暇である。まあこれは年始から決まっていた事であって致し方ないのであるが、工房の移転とそれに伴う引越し、イースターの祭日による繁忙期、新店舗の開店の三つが見事に重なってせわしがったと思ったら今度は人を欠くんだから、こうも円滑スムーズにスタートは切れないものかと反面教師を仰ぐが如く却って感心した。然しそう思う反面、これがせめて設備的合理性の上がった新工房で良かったとも思った。その上残ったメンバーがシェフとトミーと私とマリオで、四分の三をマイスターが占めるという異例の事態であったのも功を奏したかもしれない。いやなにも休暇中の二人をおとしめたいわけではないし、ましてや私自身を鼻高々、不在の二人の上に鎮座させるような図々しさを露呈させてしまったわけでも無論ない。

 シェフは言わずもがな工房の概要を心得ているが、トミーは言わば彼の右腕の如くその詳細を心得ている。オーブンをはじめとする新しい設備の勝手の殆どをトミーは把握していた。また今週、サワー種を生成する機械も工房に運び込まれ、これについてはシェフが詳しい。こう並べるともう一人のマイスターは何を心得ているんだと囃されそうであるが、ペストリ※1ー類の製造から仕上げから管理迄が殆ど私に一任されているから、それらを把握しているのが唯一私である。それから自分で言うような事では無いが、工房の中、作業の隙間を器用に動き回らせたら私の右に出る者は――少なくとも今の職場には――いないから使い勝手も良いだろう。工房の全体を見渡した時、手の必要そうな所へ飄々と駆け付けては作業をこなし片付けて、また次の作業の元へ行く風来坊は、マイスターの貫禄こそ無く目立ちはせぬが潤滑剤としての役割は十分果たしているだろうと自負している。或いはそうでも言って時々己をかついでやらねば、所謂いわゆる正統派のマイスターらしいトミーを前にして気付かぬ内にみるみる背をまるめてしまうのが私の性質である。

 「時に君、シェフに辞意を伝えたと言うが書面では出したのか。辞めたい日の三ヶ月は前に提出しないといけない筈だったと思うが」と或る日の仕事中にトミーが私に聞いて来たから「期日通りには出すさ」と答えると、「もしも出し損ねて君が此処ここに残るって言うんなら此方こちらとしても大歓迎だが」と茶化した後、「君が辞めるなら代わりが要るからな。九月に来る新しい見習い生が幾らパン屋の息子で色々知ってるったって、マイスターの代わりにはなんでも不足だ」と言った。仮にこの言葉が御弁茶羅おべんちゃらであったにしても音が意味を持って私の耳まで届いている時点で事実であるから、私は素直に受け取って、どうやら私もマイスターとして認識されているんだと思うと、一人勝手に卑屈がるのも随分な無駄骨の様な気がした。世の中実際そんな事ばかりである。
 
 
 さて家に帰れば一人親方、今週も節々せっせっとパンを焼いた。課題は、としてしまうと幾ら親方と言えど余りにかしこまり過ぎた印象になってしまうから、試みたかった事、とするが、塩を加えたサワー種は日持ちが良くなるのか、という事とアテネで買ったキャラウェイシードを使用したかった、という二点である。いずれもサワー種を使うパンであったから、週の半頃にキャラウェイを使ったパンを焼き、残りのサワー種を継ぐ事なく数日放置したまま、土曜日にブロー※2トを一つ焼いてみた。

 キャラウェイを使ったのはライ麦粉入りの小型パンである。パン自体もすこぶる美しく仕上がったが、何と言ってもこのキャラウェイである。ドイツのスーパーで手に入る物やパン屋で使われている物、要するにドイツで出回っている物とは明らかに違った。その見た目がやや長細い点には、アテネでの購入時に既に気が付いていたが、その香りも随分違った。身近なキャラウェイよりもずっと渋い香りがした。ここで言う渋いとはしか劣的ネガティブな意味ではなく、渋いダンディーという意味で、野性的な古代薬草のアイデンティティに満ち満ちた香りであった。食べてみると味わいもこれまた薬草らしい。変に飾り立てた洒落っ気の無い薬臭さが実に心地良かった。これはまさしく人生を豊かにする大発見であった。

 その時残ったサワー種の様子を土曜日に伺うと、見た目にも香りにも病的な様子は見られなかった。仕事から帰って来た足で早々さっさっと作り始められたブロートは、見事なまでに美しく焼き上がった。風味も良い。サワー種も十分に機能していそうであった。キャラウェイの小型パンは余りの美味しそうな姿に思わず一息で四つも平らげてしまったが、ブロートとなるとそういうわけにもいかない。おまけに二つも焼いた。これでまた冷凍庫がぱんぱんである。

 然しこう美しくパンが焼き上がった瞬間には癒しの効果があるんじゃないかと思う。生地を捏ね始めてからパンが焼き上がる迄の間はまさに気の抜けない緊張状態になるが、窯を開けてその美しさが目に飛び込むと仕事の疲労其方退そっちのけ、たちまち小躍り上等の如く気分が上向く。目が輝き笑みが零れる。この癒しでもって知らず知らず疲労が誤魔化され、地震と腰痛が引き起こされたのだとすれば納得もいく。もう少し意識的に体を労わってやろうと思う。
 
 
 

※この作品では一部実在しない表現/漢字を使用しています。
※パン作りの様子などはYouTubeでご覧になれます。


(※1)ペストリー類:クロワッサンなど折り込み生地を使用したパンの総称。
(※2)ブロート:ドイツにおける大型パンの総称。

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