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*32 ギフト

 ドイツ電鉄のストライキが又あると言うから、月曜日は夜中の十二時に目を覚まして以降、一時間置きに目を覚ましては電車の運行状況を確認する為に立ち上がってパソコンの前へ行き、それで又ベッドに潜って眠るというのを三時まで繰り返した。スマートフォンがあれば立ち上がる手間も省けたのにとは思ったが、かと言ってスマートフォンの無い生活にもすっかり慣れ始めていた。電車はと言うとインターネットサイトに、随時確認して下さいと言う注意書きは表示されていたけれども、運休ですとは断言されていないまま遂に出勤する時間になったので、シェフ(※1)から「もし電車が走っていなければ仕事を休みなさい」と言われていたが、その確認の出来ないまま取り敢えず乗り継ぎする駅までは行ってみる事にした。ストライキの影響を受けるのはそこから先の電車である。


 インターネットサイトにも駅の電光掲示板にも運休の表記が無いまま、本来の出発時間になってもそれから十分二十分と経っても遂に始発の電車は来なかった。慣れない公衆電話からシェフに電話をした私は、次の電車が走るようならそれで来なさいという指示を貰い四十分程待った後、幸い次の電車は予定通りに走った。私は御蔭で八月最後の出勤日にして普段よりも一時間遅い出勤となった。職場に着くと私の顔を見るなり皆驚いた様に笑った。販売婦のジェニーからは、寝坊かと尋(き)かれたので、電車が寝坊したんだと冗談で返した積でいたが思い返すと、良く眠れたかと尋いて来ていたんだと気付いて人知れず恥ずかしがった。


 工房の中には見慣れたメンバーの他に、見慣れない少女が一人混じっていた。話を聞くと職業体験に来た十五歳の少女らしかった。プレッツェルの成形の時に、机に横並びで立っていた私とヨハンの間に彼女が入るとヨハンが私に向かって、さあ君の初めての教育の機会だねと然(さ)も先日教育試験を合格した私の御手並みを拝見するかのように茶化した態度を示してきた。私はパンに関して言えばこうして手解きする事が寧(むし)ろ好きであった為に、是非喜んでと言って張り切ってその少女に教え始めたのだが、冗談に対する態度としては頗(すこぶ)る詰まらなかったろうと心の端で一寸(ちょっと)自分の言動を悔やんだ。

 この日は彼女と作業する事が多かったのであるが、彼是(あれこれ)と話をしていると家で母親と共にブロート(※2)を焼いたりするんだと教えてくれた。通りで何処となく全くの素人とは思えない様子であったのだが、それにしても家でパンを焼いていてその延長でパン屋で見習いをしようと考えているような正統派のドイツの若者に初めて出会った事に感心して、思わずヨハンにそんな話をした。彼も彼で、彼女は好奇心が旺盛で素晴らしい、と褒めており、その視線の先で彼女は製菓職人のアンナがしている作業を何やら興味深そうにじっと見詰めていた。


 その日が私の八月最後の出勤日だったので、アンディやヨハン、アンナを筆頭に販売婦達や職業体験に来ていた少女までも、これから最後のマイスター試験に向けた授業を受ける私への応援の言葉や、また十月に会おうと云った言葉を掛けてくれた。そして一人工房で最後の掃除をしていると、シェフから社内電話で事務所に呼ばれたので掃除を全部済ませてから、店内で食事を楽しむ客の脇を通って二階へ上がった。事務所に入ると、シェフと奥さんが迎えてくれた。私は屹度(きっと)十月からの話を取り決めるのだろうと予測していたのだが、私がシェフの前に立つなりシェフも、さて、と言った風に立ち上がり、君がこのパン屋に来てくれた事を嬉しく思うよ、有難うと、私の全く予想だにしていない言葉を口から吐き、そればかりか、ちょっとした物だがと言ってプレゼントまで手渡してくれた。カラフルな袋の中には二つの瓶に其々詰められた苺ジャムと洋梨のシロップ漬け、それから箱入りのチョコレートが入っていた(※3)。

 私は驚きと嬉しさの余り、一瞬脳裏に「感極まる」という言葉が過(よぎ)った。屹度その言葉に身を任せていたら人目も憚(はばか)らず涙を漏らしていただろうと思う瞬間であった。結局その瞬間に咄嗟に感極まると云う言葉を掻き消して唯々嬉しがって見せてはいたが、八月に入ってから散々受け取って来た愛の集大成とも思える台詞とプレゼントはそれほど私の琴線を揺さ振った。アンナはそのプレゼントを、賄賂ね、あなたが逃げないように釘をさしたのよと評していたが、彼女も、また他の同僚も知らない所でシェフに対する恩恵を感じている私は、例えその釘がゴルゴタの丘で手に足に刺された釘だったとしても、それを恵みだ歓びだと信じて疑わないに違いなかった。

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 そんな応援を背にして、斯くして翌火曜日から六週間に渡る最後の授業が始まった。同居人のトーマスとも久しぶりに顔を合わせて、私の仕事の話やワクチン接種の話なんかをした。元々八月は時間があると能天気に云っていた私の言葉を受けて、私達はこの夏に山や湖へ行く積でいたのだがそれも叶わぬままドイツの夏はすっかり過ぎ去った。

 
 今度の授業を受け持つ先生は又新しかった。今週だけで五人もの先生が順繰り授業を受け持っていたが、その内の二人はまるでオンライン授業の仕方が成っていないように感ぜられて厭(いや)だった。一人は教科書や資料の頁(ページ)の指定も、画面にパワーポイントを映し出す事もせず、只自分の姿を画面に映しては永遠に喋ってばかりであったし、もう一人は自分を映す代わりにカメラで机の上に敷かれた真白な紙を映しながら、声だけは一人芝居かスタンダップコメディでも披露する如くに大袈裟であった。どうせカメラの後ろでは身振り手振りも激しくしているんだろうから、彼の場合は真白な紙なんかよりも自分を映しておいてくれた方がまだ気が利いている。私は授業だか劇だか朗読会だかが終わった後に、自分で教科書を隅々まで読む他に無かった。


 そう言えば私のスマートフォンであるが、今週の水曜日に再び手元に返って来た。結局私は殆ど毎日の様に態々(わざわざ)電車に乗って、レーゲンスブルク中央駅(※4)に併設されたショッピングモールの中の修理屋へ足繁く通ったお陰で、到頭(とうとう)私がスマートフォンを受け取った日なんかは私の顔を見るや否や修理屋の彼はまるで友人にでも会ったかのように、やあ、調子はどうだなどと声を掛けて来たので私も、電話以外は問題無いと遣り返した。それから何だ彼だと話している中で、君のドイツ語は上手だね、てっきりドイツ語は苦手なものと思っていたよと案の定な見解を恥ずかしげもなく伝えて来たので、修理を依頼した先週の木曜日にすっかり君の態度に滲み出ていたよと伝えたかったが、その頃には私も友人と喋るのと殆ど違わずに心穏やかであったのでその案は立ち消えになった。


 その日思い切っていっその事画面のフィルムもカバーも新調した私は、もう二度と君の所へ来なくて済むようにと皮肉った後、支払いを済ませようとカードを取り出すと、生憎今はカードが使えないんだと言うので、財布の中身を覗くと持ち合わせが足りなかった。私は直ぐにモール内のATMで下ろして来ると伝え、折角受け取ったスマートフォンをもう一度カウンターに置くと、持って行きなよと彼が言うので、私がそのまま持って逃げるかもしれないじゃないかと言おうと思った胸の内を見抜き先手を打つ様に、僕は君を信じてるからと続けた。全く最後までやかましい男であった。


 土曜日は私の誕生日だったので、金曜日の授業が終わると私は早速ケーキのスポンジを焼いた。六月の試験やそれまでの練習に比べて上手に出来た。そして翌土曜日は朝から生クリームを泡立てて自分の為のショートケーキを作った(※5)。ドイツには苺と生クリームの所謂ショートケーキという物が無いので、私自身食べるのが何年振りかだか知り得なかったが懐かしい味わいが嬉しかった。ケーキを作り終えると、今度は電車に乗って次に借りられそうな部屋の下見へ出掛けた。ついでなので電車を乗り継ぐ合間の三十分で銀行へ走り授業料の振り込みも済ませた。生憎の雨に打たれながら訪れた借間はこれと言って問題の見当たらない所であった。また貸し主も人当たりの良い男であった。まあ少し考えて明日には連絡しますと言って、雨の中をまた駅へ向かった。

 矢張りジャンパーを着て来れば良かったと後悔する程の肌寒さは雨のせいばかりではない。六年住んでも未だに受け入れられないドイツの夏の短さを、さあもういい加減に諦めなさいと言われるが如く突き付けられた新しい一年の始まりに、私は観念して毛布を引っ張り出した。




(※1)シェフ [der Chef]:社長。ここではクリスという名前の製パンマイスター。
(※2)ブロート [das Brot]:大型のパン。反対に小型のパンをブロートヒェン[ das Brötchen]と呼ばれ、重量で区分されている。
(※3)カラフルな袋の…入っていた。:

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(※4)レーゲンスブルク中央駅:ドイツのバイエルン州に位置するレーゲンスブルクという街の主要駅。
(※5)ショートケーキを作った。:

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マイスター養成学校が始まり勉強に全身全霊を注ぎ込む積でいまして、それに伴い勝手ではありますが記事投稿の日曜日以外はなかなかnoteの方にも顔を出せなくなります。どうかご了承ください。

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