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*25 背筋を伸ばして

 週の始めの月曜日、最も信頼のおける友人とテレビ電話をした。御互いの近況報告をしたいというのもあったが、私の脳内に浮かんでいた将来の展望を是非とも聞いてみて欲しくなったのである。信頼を寄せている上に私が彼をアイデアマンと呼ぶ理由は、私とほとんど正反対の様な性質を彼が持っている事にあった。
 
 パン職人でも海外在住者でもない彼は、果たして私の考えが及び切っていない部分を見事に刺戟しげきした。具体的な策にあらず、それよりも目を向けべき無形の点に気付く切掛きっかけを私は受け取り、それがさらなる情熱に引火した。電話を終える頃にはすっかり高くなっていた熱は、結局次の日になってもまた次の日になっても私の内側を温め続けた。
 
 
 各種解約書類をこしらえてはいよいよそれらを順番に解き放ち始めたのが今週であった。銀行について言えば直接尋ねたい事もあったから隣町まで出向く必要があった。それを仕事中トミーに話すと「それなら俺の彼女の店に顔を出すと良いよ」と言ってくれた。以前開店の際に私が絵を描いて贈ってそれを壁に掛けてくれた店である。彼の彼女ともその時に一度会ったくらいだから、さて顔を出すって言ったって何と挨拶をしたらいいものだろうかと考えつつ、まあ行ってみるよと返事をした。

 その日は銀行に寄るついで、その街に住む、先日職業体験インターンシップに来た日本人の女性とも会う約束をしていた。住居の引継云々でまだ話を詰める必要があったからこれまたトミーに勧められたカフェに入ったのであるが、彼の勧めてくれたパンが生憎あいにく置かれておらず残念であった。その少し前、満を持してトミーの彼女の店へ顔を出した時も、生憎あいにく彼女は昼休憩に出ていて不在であった。代わりにその場にいたスタッフに顔を出した経緯を説明すると、「絵がまだちゃんと飾られているか確認しに来たんでしょう」と茶化されてそれで違いますよと。折角の目的がものの見事に肩透かしを食らい、それを翌日トミーに話すと、ああ彼女から聞いたよ、なんともばつが悪かったなと笑った。
 
 
 その火曜日、衝撃の情報がトミーの口から工房全体にもたらされた。製菓職人のアンナが辞めた、と言うのである。確かに彼是かれこれ五六週間もの間、有給休暇だの病欠だのと言う名目で彼女は工房に姿を現しておらず、どうも様子がおかしいな、という話までは同僚とも時折交わしたが、まさかその足で辞めていくとは予想だにもしなかった。
 
 アンナと言えば製菓部門の主たる長たる存在であり、必ず皆の中心に居る様な目立つタイプでもあった。そんな彼女であるなら、職場を去るにしたってもう少し華々しく去っても良さそうなものであっただけに、そういった意味での寂しさがあり大変残念に思われた。
 
 また製菓部門はアンナの不在に加えてシルビアも四週間ほど不在であった。こちらは有給休暇に次いで残業分の休日が二週間分もあったという話である。二週間分と言えば単純計算で九十六時間の残業があったとなるが、その真偽もはなはだ曖昧である。何れにしても矢ッ張り様子がおかしいと噂になっていたが、こちらについては辞職の話を聞かない。二人も同時に辞められては大変な事態である。
 
 
  職人二人が不在の製菓部門に残ったのは見習い生のララとつい数週間前に加わったエヴァの二人であった。エヴァについては製菓職人でもなんでもないのであるが、そんなエヴァが木曜日、ララが職業学校に通う都合で到頭とうとう製菓部門を一人で切り盛りする必要があった。二週間ほどララに付いて製菓の仕事を経験してきたと言ったって心許こころもとないのには違わない。そのララだっておよそ一年と働いて来たが世間的には見習い一年生である。

 その日は製パン見習い生のマリオもララと同様、職業学校に通う日であったから仕事の後半は私とエヴァが二人工房に残って各々作業を進めていた。二人と言っても各々の作業場で黙々仕事にあたっていたが、しばらくしてエヴァが私の元へ来ると「クッキー生Mürbeteig地を作るんだけどちょっと立ち会ってもらえないかしら」と助けを求めて来た。クッキー生地の完成の状態や製造手順がまるで解らないから確認して欲しいという頼みであった。私は自分の作業の手を止めて彼女の作業場へ同行した。
 
 聞けば材料こそ量ったが、これを混ぜ合わせる順番なんかも聞いていないんだと言ったから、全くどういう段取りになっているんだと呆れたが、それでも責任感で作業にあたっていたエヴァの健気さがドイツ人らしく、微笑ましく思われた。
 
 ちょうど最近リンツァートルテを作っていた私は、その例も引き合いに出しながら混ぜる順番や完成した生地の質感なども説明しながら最後迄立ち会った。良し完成だ、と言うと、エヴァは「成し遂げられたWir haben geschafft!!」と子供の如くはしゃいだ。そんな私もこの職場に来てクッキー生地を作ったのはこの時が初めてであった。普段は製菓の方で片付ける仕事であったから、そういう意味では完成の目安も製造の手順も不明である。然しそこはマイスター、またこの場で他に縋る所も無い以上、職場のやり方云々は一旦忘れ、マイスター学校で習った製法を手引きにエヴァへ説明をしながら堂々と作り上げた私は、己の振る舞いに成長を伺わずにはいられなかった。
 
 
 金曜日、クロワッサン生地を作る必要があったから材料を量っていると、見習い生のマリオが近付いて来たから、君、生地を仕込みたいかねと聞くと積極的な返事が返って来て、それで私は注意点を確認したのち作業を彼に引き継いだ。一ヶ月ほど前から彼の様子に変化が伺えた。仕事を覚えようと積極的な姿勢が見られ、また様々な作業において急激な成長が見られた。
 
 彼の仕込んだ生地は正しく出来上がった。私が伝えた注意点に気を付け、レシピ通りに仕込めば誰だって出来るだろうと言いたい気持ちもわかるが、相手はまだ十六歳の少年である。生地が綺麗に出来上がると「Schön, Schön美しい」と言ってしまうのは私の口癖であるが、この時は彼も生地を分割しながら私に「僕の仕込みも最初の頃と比べて随分良くなったでしょう」と上機嫌に聞いて来たから、「Spitze!最高だ」と親指を立ててやった。
 
 生地を分割していくと余りが出た。「余った生地はどうしたらいい」とマリオが聞いて来たから、折角ならツォプフ※1の練習でもしようか、と余りの生地を更に細かく分割し二人で四本、五本、そして六本のツォプフを一つずつ作った。私の手本をみながら彼も試しにやってみる、という紹介程度の機会であったが、彼も見様見真似、曲りなりにも正しい動きで一通り編んだ。「それを冷蔵室に入れておいて明日トミーに言って一緒に焼いてみなさい」と指示した私は、土曜日に休みが入っていたから焼き上がり迄見れてはいないが、この時の私もまた指導者として堂々とした振る舞いをしていたのも一つ己の成長の様に感ぜられた。物事は何でも積み上げるとそれなりになるものである。
 
 
 週の終わりの土曜日、最も信頼のおける友人夫婦の家を訪れた。御互いに近況報告をしたいだけのつもりでいたが、私の脳内に浮かんでいた将来の展望がいつしか口から溢れていた。信頼を寄せている上に私がこの夫婦を好いているのは、私と大変似た性質を持ちながら、それでいて私よりも濃密な人生と強固な根幹アイデンティティを背負っている事にあった。
 
 パン職人としてドイツで働く二人は、果たして私の背中を力強く押した。抽象的な賛同にあらず、まるで二人が残して来た足跡そくせき刺青きざまれた背中でもって語るが如き声援を私は受け取った。部屋を後にする頃にはすっかり燃えていた炎は、結局未来の先まで私の人生を照らし続ける松明の様に今なお燃え盛っている。
 


 
※この作品では一部実在しない表現/漢字を使用しています。 


(※1)ツォプフ:編みパンの事。Zopf。

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