マガジンのカバー画像

ドイツパン修行録~マイスター学校編~

42
製パン経験の全く無かった元宮大工の男がパンの本場ドイツに渡り、国家資格である製パンマイスターを目指す物語のマイスター学校編。 田舎町に移り住み、通い始めたマイスター学校。真っ新な…
運営しているクリエイター

#短編小説

*29 マイスターブリーフ

 今週は片時も休まず心をそわそわとさせながら過ごした。厳密に言えば週の頭頃はまだそれほど落ち着かないでも無かった。それが週も後半に差し掛かるにつれてどんどんと大きくなっていった。理由は他でもない。マイスターブリーフの授与式が金曜日に予定されていたからである。  まず始めに正直を申し上げておきたい。マイスターブリーフ授与式の招待状が手元に届いた時の私は、出席しないという選択も厭わないとする心持であった。大変光栄な式典である事は私にも十二分に理解出来ていたのだが、如何せん人の

*5 おわりはじまり

 ドイツに来てから五年間世話になったパン屋をとうとう辞めた。気付けば前職の宮大工であった四年を越え、暦で見てももう肩書はパン職人たるべきはずである。振り返ろうとすると想像以上に文字数が嵩みそうなので、今回ばかりは覚悟を持って読み進めていただきたい。  去年の春頃に企てた時点ではその年の七月まででとっくに辞めているはずだったのだが、言わずもがなその計画を変更せざるを得ない状況を迎え、そうして年の明けたこの一月末に照準を合わせて来た。一日一日指折り数えながら遥か先の事のように思

*6 天使の拍手が鳴るかのように

 始業の定時である深夜一時よりも十分程早く工房に入り、すでに仕事に掛かっている数人の同僚に挨拶をしながら自分の持ち場である巨大なデッキオーブンの前まで足を運び、オーブンに窯入れや窯出し用に備え付けられた機械を操作する為のコンピューターの電源を入れ、冷蔵室で丸一日時間をかけてゆっくりと発酵を進められたバゲット生地が並べられている天板でいっぱいのキャスター付きラックを引っ張り出し、ナイフでクープを入れ窯入れする。それを皮切りに、その日中に出荷されるべき五種類のブロート(※1)を順

*8 夢を見るということ

 恋人が搭乗ゲートへ向かい、その背中を見送った瞬間から私達の九〇〇〇㎞に渡る遠距離恋愛が始まった。  フランクフルト(※1)は晴れていた。ミュンヘンの部屋からフランクフルトへ向かう道中で、スーツケースやボストンバックを携えた人をほとんど見掛けなかったので、このご時世、もはや後ろめたさを感じる様であったが、空港に近付くに連れそういった姿がぽつぽつと増えだすと少し安心した。それどころか、空港に入るとトルコ航空のチェックインカウンターには長蛇の列が出来ており、私の恋人同様祖国へ帰

*9 想い出を後にして

 フランクフルト空港から帰ってきた時は隙間だらけで私一人に対し空間を持て余していたアパートの部屋も、日に日にその規模を縮小していると見えて、相対的に自分を小さく見積もる事も少なくなってきた。  一人になると寂しいのは紛う事なき事実であるが、いつまでもおめおめとそんな事ばかり考えていても仕方がない。しかしここで言う寂しさとは、決して愛の欠損によるものに限った話ではなく、時間的余白の中で己に対する遣る瀬無さを感じている事をも指している。世間体を憚らずに言えば所謂ニートとなったの

*10 ニュー・スタート

 陽射しの割に肌寒い初春の候の下を行くにはやや軽過ぎた装いに、心持ち後悔の念を抱きつついた私は、重たい荷物を全身に絡げて乗り込んだ快速列車の中で、結局背中を汗で湿らせながら、六年暮らした街並を車窓から眺めていた。或いは、車窓から街を眺めていたと言うよりも、過ごした六年の記憶を窓に映して眺めていたと言った方が適当かも知れない。兎に角私は三月の一日にミュンヘン(※1)を去ったのである。  ミュンヘンで過ごす最後の日となったその日は朝から仕上げの片付けに追われていたにも拘らず、珍

*11 パンを求めて

 引っ越してからの日々は至極平坦な物である。しかし平単でありながら、一般という枠からはすっかりはみ出してしまっているように思われて、どことなく肩身が狭い様な気持ちがする。最新の流行を把握しているわけでもなければ、経済の動向を細かくチェックしているわけでもなく、いわば社会人であれば当然であるべき筈のルールを悉く疎かにしながら、それでも今日もこうして一丁前に営まれる生活という支川が、再度社会の激流とぶつかり合流する日を今か今かと待ち焦がれている者こそが私である。  そんな私が今

*12 不安な心は春風を待つ

 最も単簡な言葉で言い表すとすれば、先週末に焼いたパンは満足の出来であった。或いは、こんな可もなく不可もない無難な表現で言い表す外に、適当に装飾出来る言葉が見当たらない程至極平凡で、仮にも製パンに従事する者としては所詮最低点を上回った程度な当然の出来栄えであった。特別輝かしかったわけでもなければ、飛んでもなく酷かったわけでもないのである。  しかし私にとって大切だったのは結果よりも工程にあった。先だって自らを「製パンに従事する者」と謳った矢先であるが、肝心の製パン業から離れ

*28 チャリオット

 先週の内に山ほど応募した求人の内で有難い事に唯一面接の機会を設けてくれたドイツ郵便を目指して、この街に住んで五ヶ月が経とうとするもののまだ一度も通る機会を持たなかった道を歩いていた。私が急遽仕事を探さなければならなくなった先週の月曜日からちょうど一週間が経ち、また残された時間も一週間であった。  面接の機会が貰えたとは言え、郵便局を目指す私は決して安心感など持ち得ないどころか、その郵便配達の職務内容が果たして私がドイツに残る為に課せられた条件を満たしているのかどうかという

*17 隣の芝生に立つ鏡

 フィット・ヴィー・アイン・ターンシューと徐にフーバー先生が私に言ってきたのは月曜日の授業中だった。ちょうどその直前に調子はどうだと尋ねられていたので大凡そういった類の話だとは思ったのだが、この言葉を投げられた時の私はその意味どころか、殆ど何と言っているのかさえ掴めずに何度も聞き返していたので、何の事だかさっぱり理解出来ずにいる読者の方々もまあ安心して読み進めて戴きたい。それでクラスメートの一人が「ターンシューが何か分からないんだ」と言った事で教室中に笑いが起こってその一件は

*16 オーブンが無いとパンに成らない

 このシュトラウビングと言う街に越して来てからというもの、矢鱈と忙しない天気が目立つ。それも日毎に空の表情が変わるというのとはわけが違って、十分前に吹雪いていた景色が今はもうさっぱり晴れていたりするという様なのを一日中繰り返して、三寒四温を二十四時間の内に凝縮したが如くに晴れたり雨たり雪たりするのである。毎日では無いにしても既に頻繁である。それだから学校からの帰路で晴れていたと思っても、トレーニングを済まし、いざジョギングへと外に出ると、私を小馬鹿にする様に雨やら雪やらが舞っ

*15 馬に乗るまでは牛に乗る

 四月に入ると冬の影もすっかり無くなり、外を走る際の身支度にも衣替えを施し、また走っていると其処彼処で車のタイヤが交換されているのを見掛ける様にぽかぽかとした日が続き、この街もすっかり春の訪れを両の手に迎え入れたと思ったところに雪が降った。朝起きてキッチンにミルクを取りに行くと、窓の外の景色がすっかり薄らと白んでいたので、普段は天気に殆ど無関心な私もこれには驚いた。それで学校に行き更衣室で二人きりになったクラスメートにまた冬に戻ったねと話し掛けると、それを最後に先生からも生徒

*14 パン職人への第一歩

 下宿先に新しい同居人が入った。名をトーマスと言った。月曜日の事である。  私は簡単に挨拶を済まし、共用のキッチンやトイレなどを説明して回ると、リビングに戻って来た時に彼が急に何か飲む物を要るかと聞いて来たので、要ると言うと自分の部屋に戻り瓶のジュースを持って戻ってくるなり、私をソファーに座るように促しそれから二人で三十分程、自己紹介がてら会話をした。これが彼との出会いである。感じの良い男であった。翌日に控えた学校を前に、彼も私と同じように心を強張らせていたらしく、君と知り合

*13 学びて時にこれを習う、悦ばしからずや

 占星術と言う学問に置いて春分の日と言うのは、どうも宇宙元旦などと呼ばれる一つ特別な節目であるらしかったのだが、そんな日の翌日に、私は六年前に知り合ってぎりで殆んど疎遠であった友人とビデオ通話で久しぶりに再会し話をした。これが私にとって途轍もなく励みになり、また春分が元旦だとするならば実に幸先良く新年を歩き出す運びとなったのである。  五年ぶりに言葉を交わすきっかけになったのはインスタグラムであった。今月に入り、居も改め、いよいよ腰を据えたが時間ばかりあった為に、私は仕事も