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*28 チャリオット

 先週の内に山ほど応募した求人の内で有難い事に唯一面接の機会を設けてくれたドイツ郵便を目指して、この街に住んで五ヶ月が経とうとするもののまだ一度も通る機会を持たなかった道を歩いていた。私が急遽仕事を探さなければならなくなった先週の月曜日からちょうど一週間が経ち、また残された時間も一週間であった。

 面接の機会が貰えたとは言え、郵便局を目指す私は決して安心感など持ち得ないどころか、その郵便配達の職務内容が果たして私がドイツに残る為に課せられた条件を満たしているのかどうかという不安が脳裏にこびり付いて離れなかった。郵便局に着くと先客がドアの前に立っており、私は少しでも不安を振り払いたかったので先客のその人に声を掛け、世間話をしながら職員を待った。


 暫くすると職員がドアの鍵を開ける為に階段を降りて来て私達は中へ通された。私以外の者は契約書にサインをしに来ていたらしく、その一歩手前の段階である私はベンチに腰掛け担当者を待つように促された。五分程待つとまた別の職員が私を部屋に案内してくれた。そして腰掛けるや否や仕事の説明を始めたのだが、最低でも八週間は働いてもらわないと雇えない、という予想だにしない通告が私の膝を砕かんとして来た。八週間という数字を暦の上に落としてみると九月末まで働いて欲しいという事だと理解し、するとマイスター学校の授業期間の殆どを仕事に費やさねばならない事実が判明した。私はどうにかして食い下がろうかと思ってみたが、どう知恵を振り絞っても私には断念する以外の道が無かった。

 最後の頼みの綱とばかり考えていた郵便配達の仕事を断念せざるを得なくなった私は、まさに路頭に迷う男の如く頭をわしゃわしゃと掻きつつ、郵便局からの見慣れぬ道を足早に歩いていた。店の前を通る度に求人が無いかと顔を上げ、さもなければやや俯き加減でただ脳内の情景だけが目まぐるしく動いていた。

 そんな時である。丁度俯いていた御蔭で低くなっていた目線に一つの看板が突如出現したのである。職業案内所であった。授業の傍らインターネット上で求人を漁ってばかりだった私の頭に無かった選択肢が、運命の如く私の目の前に現れたのである。私は考える間もなく駆け込み、冒頭から私の置かれている状況を捲し立てるように説明した。担当してくれた女性は終始親身に対応してくれた。履歴書は持っていますかと尋ねられた時に、咄嗟にスマートフォンの中にデータとして持っている事を思い出し、それをメールで担当者のパソコンに送って事無きを得た時は、全く神の導きであるかのように感ぜられた。

 最後に「今週中に必ず契約書をお渡し出来ます」と心強い言葉を掛けてくれた彼女に見送られ私は職業案内所を出たのだが、その言葉の自信が何処から出てくるのだかさっぱり理解出来なかった。しかしその反面、私が個人で求人に応募するよりも公式な案内所が手配した方がひょっとすると上手くいくかもしれないという期待も不安で逸(はや)る心の中に芽生えていた。



 翌火曜日に上旬のうちから予定されていたパン屋での面接があったので、そこに行く前に私はまた別の職業案内所に顔を出し、同じように状況を熱弁し、それから電車に乗ってパン屋を目指した。ややこしいドイツ語の店名で呼ぶのも厄介であるので、このパン屋を以降Bと呼ぶ事にする。

 私はパン屋を目指す電車の中で、本来は十月から働きたいという理由で応募してあったのだが急遽八月から雇って貰えないか、様子を探りつつ機会があれば聞いてみようと決心していた。そんな急な話が罷(まか)り通るかどうかなど予測も付かなかったが、私にはただ後が無かったのである。


 電車とバスを乗り継ぎ五十分程でパン屋Bの工房に辿り着いた。恐る恐るドアを潜ると、偶然中から見習い生らしき女の子が出てきたので、面接に来ましたと伝えると事務室まで通してくれた。中には女性が一人座っていた。彼女は私を事務室に入れると椅子に座るように指示し、社長が来るまでの間に労働内容であるとか従業員の数であるとか、企業の概要を説明してくれた。落ち着いたトーンでフランクに話す彼女に促され、私は構えていたよりもずっと単簡に八月からの雇用について早速尋ねていた。彼女は人員配置の表をさっと眺めるなり、大丈夫よと言ってくれた。それから社長が事務室に入って来ると彼女が私に関する説明を私に代わって説明をし、そして社長も八月からの雇用は可能であると言ってくれた。ここ最近ずっと冷汗を流していた私の心の安堵の溜め息が聞こえた。そして木曜日に一日試験的に働く約束をして、その日の面接は終わった。一筋の光が見えたその日の内に、私は金曜日に予定されていたパン屋の面接を一つ断った。



 翌水曜日にも私は面接が一つ決まっていたので、その日も朝から電車に乗ってまた別のパン屋を目指していた。このパン屋をAと呼ぶ事にするが、応募した段階で本命と考えていたパン屋であった。ではあったが前日に一つ約束を戴いていた私はあまり固執し過ぎないように気を付けようと心に決めていた。


 パン屋Aに着くと販売員が社長を呼んでくれ、少し待つとふくよかで愛嬌のある女性が現れ、あなたね、待っていたわと言いながら握手を交わすなり、早速お話をしましょうと言ってコーヒーを二つ注文し、階段を上がって二階の事務室に案内してくれた。電話口で感じていた以上に快活で友好的な太陽の様な人であった。

 事務室に入り机を挟んで座ると、全く堅苦しさの無い談合が行われた。私はここでも八月からの雇用について尋ねた。駄目と言われたら選択肢が絞られると思ったからである。ところが彼女は勿論と言って、さらに八月から働くとした場合の事について次から次へと話を発展させていった。それが身に余る程の好待遇だったのである。給料は幾ら欲しいのかであるとか、八月から働くならホテルを一室借りるだとか、無論私が八月末からマイスター学校の授業を受けなければならない事を考慮した上で熱烈なラブコールを受けたのである。しかしそれに対して正直なところ私は少したじろいでしまった。それほど与えて貰って私には何が返せるだろうか、と少し勘繰り過ぎてしまっていたのだがこれは私の性質上仕様の無い事であった。

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 その日の帰り道、私は贅沢にも二つのパン屋の間で頭を悩ませた。どちらに進んでも学べる事はあるだろうし、どちらの印象も良かった。私はついに自分の生活環境でもって見定めようと考えた。パン屋Aの方は小さい町にあるので交通手段が悪く、八月にホテルを借りて貰えるとしても、洗濯や食事の面での金銭的不安が貧乏学生である私を迷わせる種であった為に、通うとなるとやや遠いのである。パン屋Bの方は大きい街の一角にあるので交通網だけでなく今後生活するにも不足が無いだろうと思われた。挙句の果てに私は木曜日にパン屋Bで一日試験的に働いてから答えを出そうと決めた。



 翌日、私は指定の時間にパン屋Bに到着し、三人の従業員と一日働いた。働いている内もまだ迷いがあったが、一日働いたらそれはもう殆ど合意であるので私の胸の内では、もともと本命であったパン屋Aの方を断念する方向に傾き始めていた。

 仕事が終わると私は事務室に顔を出した。担当の女性に、どうだったかと聞かれ、良かったと答えると今後の動きについて少し話をした。マイスター学校の授業がある期間などを再確認し、契約書は明日までに完成できるという話で合意を取り、その日の帰り道に私は本命であったパン屋Aに断わりの連絡を送った。

 約二週間ばたばたと動いて来たがなんとかなりそうだと、帰宅した私は安心感をなぞり、さてここらで一度贅沢な晩餐でもして祝杯を上げようなどと考えていた。そこへパン屋Bから電話が掛かって来た。そして「やっぱりうちでは雇えません」という非情な通達を受けた。事務室で合意をしてから三時間後の出来事であった。万事休すである。私は一瞬話の内容を理解出来なかったが、私の手でどうにか出来る話では無いと気付くと、電話を切るなり大急ぎでパン屋Aの社長に電話を掛けた。そして彼女が電話に出るや否や、昼間に断わりの連絡をしておいて申し訳ないのですが、どうか八月から雇っていただけませんか、と必死に懇願した。そんな非常識をする以外に私にはもう愈々(いよいよ)後が無かったのである。彼女は電話の向こうで少し笑いながら、大丈夫大丈夫、問題ないわ、と私の無理を引き受けてくれた。

 ついさっき手の平を返されたばかりである手前、純粋にパン屋Aとの口約束を信じる事は難しかったが、信じるしか道は無かった。そして翌日、約束通り彼女から雇用証明書が送られてきたので漸(ようや)く私は安心することが出来た。そして受け取った証明書を外国人局の方へ送った。契約書を送るように言われていたのだが作成に時間がかかるので先に雇用証明書を送ります、という文面を添えて何とか課せられた試練を乗り越えた。


 まるで映画の一本でも撮れる位の紆余曲折と喜怒哀楽のあった二週間であったが、クライマックスに相応しい大どんでん返しによって運命に導かれるように本命のパン屋に雇って貰うという結末を迎えた。これだけ色々と起こったので来週からの雇用が決まったとは言え、まだまだ何か起こりそうな予感はするが、取り敢えず何も起こりようのないこの週末くらいは心穏やかに過ごしたい所である。



(※)チャリオット:古代の戦争に用いられた戦闘用馬車。戦車。


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この度は私の未熟さ故に引き起こした問題であるにも拘らず、心配や励ましのコメント、本当にありがとうございました。今回の経験で得た反省と発見を今後の生活で見直しながら、気持ちを切り替えてまた精進していきますので、今後ともどうぞよろしくお願い致します。GENCOS

この度も「ドイツパン修行録」ならびに「頬杖ラヂオ」への訪問、ありがとうございました。もしよろしければサポートもよろしくお願い致します。 引き続きドイツパンに真摯に向き合って修行の道を精進して参りますので、何卒応援の程よろしくお願い申し上げます。また来てください!