見出し画像

5年前に書いた、アロマと私が出逢うまでの体験記④退院と休学

2000年に起きたことを2018年に書いて、2023年に振り返っている、続きです。


4、退院と休学
そういえば、父が待つ朝に目覚める前のこと。

夜明けに急に顔を抑えられ「なんだ、なんだ、痛いぞ…」と朧気ながら目覚めると、看護師さんが顔を、あれはたぶん、ホットタオルで拭いてくれていたと、思う。とにかく、そのこなれた感じの雑さで顔が痛くて、痛いって感じるってことは、生きてるんだなと感じた。また直ぐに寝たけど。朝になって父の顔を見て、さらに寝た。

次に起きた時はあの下腹部の鈍痛は消えて、代わりに手術の痛みがあった。

その日は、外科の先生がやって来て「君、腹水溜まり過ぎ!あと1日遅かったら死んでたよー!(笑)」と明るく元気に言われたり、別の科の先生からは「あの日たまたま、腕のいい先生がいて助かったんだよ」と言われたりして、だんだん、自分が死にかけていたんだということを知った。(奇跡的にタイミングが揃って、助かったことはもう少し後で知ることになったけど)

そんな余韻に浸る?こともなく、看護師さんたちは、術後少しでも早く回復する為に、がんがん歩くことを進めてくる。

こんなに管に繋がれて手術したばかりのに…?歩くのがこわい…、という繊細な気持ちもあったけど、なにせ手術前から食べてないので普通にお粥のご飯も食べてしまったし、水分が抜けてからからの体にお茶が染みわたった為、当たり前にトイレにも行きたくなった。

一歩、また一歩と歩いてゆっくりトイレに向かう。周りと比べて、自分の動きだけがスローモーションだけど、動作1つ1つ出来るようになったことへの嬉しさに、感動した。私の病院のイメージとは違い、毎食のごはんは美味しくて、明るく元気な看護師さんのサポートも手厚く、体は速いスピードで回復していった。

その退院までの短い間、私は忘れられない看護師さんと出会った。

どうしてその話しになったのかの経緯は思い出せないけれど、「看護師さんにどうしてなったのか?」という話になった。

その人は穏やかに静かに、仕事と患者さんへ対しての責任感と愛情を話してくれて、ものすごく感動した。病気の大小に限らず、本当に健康に元気になることを願っているということが、言葉だけでなく態度だけでもなく、心の奥からじんわり滲み出ているようで、全てが温かい女性だった。

家族以外の大人の“働くひと”を見て、アルバイト(労働)の経験もほぼなく、就活について悩んでいた私は、これから仕事に就いた時、こんな気持ちで誰かを笑顔にすることが出来たらいいなと思った。

あれから会ったことはないけど、時々、仕事で悩むことがあると、今でもあの笑顔を思い出す。あのハートの温かさも一緒に。今、看護師さんであっても、そうじゃなくても、元気でいてほしいな。人の想いって、距離が離れていても、どのくらい時間が経っても、色褪せないものだなとつくづく思う。

そしてその後、退院の日を迎え、親離れ子離れをするきっかけになった母娘大喧嘩(with父)が勃発する。実は次の日には仲直りをするのだけど、とにかく、親子の歴史に残る、愛があるからゆえの強烈な喧嘩だった。

親子関係やパートナーとの絆の強さ(薄さ)は、自分の口癖や考え方、行動、習慣などに影響を受けている。例えば、嫌われたくないからと相手の好みや意見に合わせたり、親と同じになりたくないという嫌悪から何かの行動したり、親子関係で染みついたしつけや習慣は、パートナーや子供との新しい密接な関係に影響を与えたりと、気づいていないだけで、“じぶん”は色んな人の影響がそりゃもう凄い。

私は結構その自覚が強くて、その影響力の中で、自分でつくる“新しい自分”をずっと模索していた。

生きるってどいうことだろう。
愛って? 仕事って?

そんなに深く考えなくても生きれるじゃん!と肩をたたいて笑ってくれる人もいたけれど、あの時の親子喧嘩は、自分の中の子供でいたい私と、大人になりたい私との葛藤が、激しくぶつかり合っていたことが表面化された出来事だった。

結局、私は1ヶ月の休学をし、体を少しづつ日常に慣らしていった。初夏になり、体はほぼ元通りになったけど、心に休んだブランクに対しての焦りや、結局なぜ病気になったのかという明確な理由がはっきりしていなかった為、また病気になるのかもしれない、という不安が湧いてきていた。

そんな時、定期検査で衝撃的な話をお医者さんから聞くことになる。「病院で検査しても手術しても、原因不明や名前がつけられない病気って沢山あるんだよ。医学でも分からないことってあるんだよね」と。

さらっと言われた私は、ぱんぱんの風船が、ぷしゅ~っとしぼんでいくみたいに肩の力が抜けて「なんだー、そうなの?」と、意外とすんなり言葉を受け入れられた。

悩みや不安は自分の強烈な思い込みで出来ている。まだ起きてないことまでも豊かにイメージ出来てしまう。

“自分の思い込み”と“ある真実”が違う時、自分の中でどちらかを“真実”にするかという選択に迫られる(選ばないという、選択もあるけど)。あの時の私は“自分の思い込み”ではない、先生の言葉を受け入れた。

真面目に悩む私にとって、「分からないことがあってもいい(考えてもどうにもならない)」ということは救いだった。

不安や恐れは同じもの(考えを持つ人や不安な出来事)を引き寄せる、ということをまだあまりよく知らなかった私にとって、あの時の思考を辞めさせてくれたことは大きかった。そして、そもそも病院でも分からないことがあるんだから、これからは自分の体は自分で管理しようと、すとんと心に決意がおちた。

もしかしたら病院に依存しそうな悲劇のヒロイン(私)を自立させるためにあの言葉を言ってくれたのかもしれないし、そうじゃないかもしれない。

あの大きな病院で、体だけでなく、沢山の人の言葉で心も救ってもらった。

「自分のことは自分でする」という方向性が決まると、まだまだ沢山の自由な時間のあった私は、とにかくスタバに行き本を読み、日記を書いて気持ちを吐き出したり、DVDを観て感動したりきゅんきゅんしたりして過ごして体と心をしっかり静養させて、復学、卒論や就活を再開することになった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?