アキラナカム

日曜画家ならぬ日曜哲学者として、デビューします。こだわっているのは、生き方です。なので…

アキラナカム

日曜画家ならぬ日曜哲学者として、デビューします。こだわっているのは、生き方です。なので、人生論とか、倫理が主なテーマやけど、時々、詩とかノンジャンル散文も、書きます。

最近の記事

生き方論の地平 第2回「正しさ」の果にあるもの

 私の正しさ、あなたの正しさ、私達の正しさ、そんなたくさんの正しさの、その果には何があるのか?  いや、確かに、それぞれの正しさがあって、今どきは、正しさを押しつけられる事に、かなり敏感に反応する時代なんやけど、なんかどうなんやろっていう違和感(あまり使いたくない言葉なんやけどな)が、私の中で膨らんでいくねんけど…  いろんな事を押し付けあった昭和(戦前戦後を問わず)っていう時代に対する反動なんやろか。それとも、多様性を最大限に尊重し、それを、一律に合唱している世界の風潮

    • 生き方論の地平 第1回 意味の意味

       「なんのために」という問いの先にあるものが「意味」だとするなら、その地平の果にあるものは、なんだろう。    あなたにはみえますか。そう、私にみえるものは…  物質という存在に意味はない。生命という現象に意味がある。人間という現象が、意味を問う。ヒトが、意味を求める。  ならば与えよう。私は、私の意味を私に。  しかしながら、あなたたちヒトが求めてきて、今も私たちの意味を求め続けているあなたたちヒトの意味を、わたしは受け取らねばならない。なぜなら、あなたたちヒトは、私の中

      • 生き方論の地平 プロローグ

         どうも私は、書くことによってやっとわかるということが、多いようだ。逆に、読む、という行為からは、エクスタシー的な「浸る」という言葉がピタッと嵌まる、ある種の快感はあるものの、いつもそこでは「答え」はみつけられなかった。なんかこう言うと、聞こえがいいようで恥ずかしいんやけど、これは、私の頭の悪さなんやろなと、今は想う。そして、その頭の悪さは、多分、普通に頭のいいヒトたちとは少し違った風景を、私に見せてくれるのだろう。だから、「先のものはあとになり、あとのものは先になる」という

        • 生き方論的ななにか あと倫理とか 詩とかも 第7回 シーズンONE エピローグ

           今回で、「生き方論的ななにか あと倫理とか 詩とかも」のシーズンONEを、閉じようと思います。閉じるにあたって、ここまで、生き方論や倫理(みたいなこと)は書いたけど、詩(みたいなもの)はなかったやんな、と思いたったので、詩(みたいなもの)三篇を締めの代わりとして載せて、最後を飾ることにします。(そんな綺麗なもんやないけどね) みんな独りで生きている  みんな独りで生きている。どうすれば、そんな生き方ができるのか。どうして私には、そんな生き方ができないのか。  私が特殊だ

        生き方論の地平 第2回「正しさ」の果にあるもの

          生き方論的ななにか あと倫理とか 詩とかも 第6回 正しい正しさを求めて (その3) 他者との関係と価値観(って、倫理のことやんか)

           今回は、生き方論のなかでも、自分と同じ個人である他者との関係を、「価値観」(便利な言葉やん)というキーワードを手がかりに考えてみます。  経験から言うと、他者との関係を深く持つ者ほど、その人の価値観は変化していく。その価値観の変化が成長なのか、変容なのかが問題なのだ。変容といえば、チェーホフの「可愛い女」を思い出す。様々な男性の価値観を吸収しては変容していく彼女、まるでアイデンティティーくそ喰らえな人格を私達は果たして人間と呼ぶことができるのか。  一方、自分として完結し

          生き方論的ななにか あと倫理とか 詩とかも 第6回 正しい正しさを求めて (その3) 他者との関係と価値観(って、倫理のことやんか)

          生き方論的ななにか あと倫理とか 詩とかも 第5回 正しい正しさを求めて (その2) 正しさの循環とサステナブルな生き方の構築

           前回は、生き方から離れて「(数学的)正しさ」について思考を巡らしたんやけど、正直なところ、かなり居心地悪かったです。あっち(数学の女王さま)も、なんか私達のこと嫌ってるようで、多分、「やだぁ、人間の匂いがする、誰か、この臭いのもと抹殺して頂戴!」てなことゆってる気がする。でも、侮れないし、捨て置けないのは、あっち側(物質や空間や無限)と繋がってるし、私達をそこに繋げてくれるからかな。ま、その辺りの関係性(人間と生命と物質界)も踏まえて、再び、生き方論に帰ってみます。なお、「

          生き方論的ななにか あと倫理とか 詩とかも 第5回 正しい正しさを求めて (その2) 正しさの循環とサステナブルな生き方の構築

          生き方論的ななにか あと倫理とか 詩とかも 第4回 正しい正しさを求めて (その1) 1+1=2はなぜ正しいのか

           前回の最後の方で述べたように、ここでは、生き方から一度離れて、正しさの意味を掘り下げてみたいと思います。何で「正しさ」なのかといえば、ぶっちゃけ私が、やっぱり「正しさ」にこだわりたいから。「善さ」とか「美しさ」とか「楽しさ」の方が面白いのにぃ、っていう人は、それにこだわって下さい。そして、あなただけのこだわりから巡らせた思考の旅路を、ぜひ聴かせて欲しいです、本当に。  さて、私のこだわっている「正しさ」について巡らせた思考のその一歩目は、数学的正しさについてです。と言っても

          生き方論的ななにか あと倫理とか 詩とかも 第4回 正しい正しさを求めて (その1) 1+1=2はなぜ正しいのか

          生き方論的ななにか あと倫理とか 詩とかも 第3回 価値の座標軸と価値バトル

           前回は、人の生き方を、主に時間軸の方向から主体と実体からなる人格の構造形成と捉えて観てきました。人が人として生きるということは、前回の最後の方に述べたように、主体と実体との対話、または駆引きの連続と捉えられると思うんやが、ここでは生き方の構造を、人間が持つ価値の座標軸という視点から観てみようと思います。  人には、その人固有の生き方を捌く価値の座標軸があると私は思いました。  私がかつて採用していたのは、Y(主体)軸に正−偽(正しい 間違い)、X(実体)軸に好−悪(好き 嫌

          生き方論的ななにか あと倫理とか 詩とかも 第3回 価値の座標軸と価値バトル

          生き方論的ななにか あと倫理とか 詩とかも 第2回 人格の構造

           20歳前後の頃、人のあり方(行動の原動力や判断の基準となる価値のあり方など)について、自分なりに納得のいく答えを探し求めていた。今思えば、自分さえ納得できて、腑に落ちればいいってことで生まれた考えだから、独り善がりなものだけど、懐かしいから、ここに出してみます。  まずは、人格の構造について。  私はこう考えた。人格は、2つの要素或いは機能から成り立っている、と。1つは主体、2つに実体です。主体は、自分自身も含めたすべてを客観視する視点であり、「正しいか間違っているか」を

          生き方論的ななにか あと倫理とか 詩とかも 第2回 人格の構造

          生き方論的ななにか あと倫理とか 詩とかも 第1回 プロローグ

           若い頃から、生き方にこだわってきた。現実の人生の中で、いいことも悪いことも沢山あって、自分との付き合い方もそうだけど、私と関わってくれたいろんな人たちとの、求め合う事と、拒否しあう事、争いや拒絶、その果ての苦しみや悲しみなどなど、半世紀以上も生きてきたら、ホントにいろんなことがあって、いろんなことを考え、悩み、もがいてきた。こう言うと、いい事より、悪い事の方が多いみたいやけど、だから考えるんやろうな、生き方を。他にやり方はなかったの? あなたの求めているものは、こんなもので

          生き方論的ななにか あと倫理とか 詩とかも 第1回 プロローグ