生き方論的ななにか あと倫理とか 詩とかも 第3回 価値の座標軸と価値バトル

 前回は、人の生き方を、主に時間軸の方向から主体と実体からなる人格の構造形成と捉えて観てきました。人が人として生きるということは、前回の最後の方に述べたように、主体と実体との対話、または駆引きの連続と捉えられると思うんやが、ここでは生き方の構造を、人間が持つ価値の座標軸という視点から観てみようと思います。
 人には、その人固有の生き方を捌く価値の座標軸があると私は思いました。
 私がかつて採用していたのは、Y(主体)軸に正−偽(正しい 間違い)、X(実体)軸に好−悪(好き 嫌い)というものです。4つの象限は、以下の通り。

第1象限 正しく且つ好きなこと
第2象限 正しいが、嫌いなこと
第3象限 間違い且つ嫌いなこと
第4象限 間違いだが好きなこと

価値の座標軸

 見てわかる通り、第1、第3象限は、私にとってはあるべき姿であり、第2、第4象限は、生きるにあたって日々直面し、また、ずっと長きに渡って闘い続けている課題でもあります。第2象限で言えば、嫌だけど、やっとくべきことって、生きてていっぱいあるやん。その時、嫌だけど、やったとしたら、勝ち、嫌だから、やらないとしたら、負けって感じで、若い頃は、やたらに自分を責め立てたものです。我ながら、責められた自分が可哀想でした。第4象限はその逆やね。アカンことやのに、好きなこと、やっちまいたいことも、生きてていっぱいあるやん。それが高じた場合、いつの間にか犯罪の匂いまでしてくる。そんなやばいことを、想像の世界の中で遊ぶ人と、いつの間にか一線を越えてリアルでやっちまう奴って、何が違うんかな。そんなこんな、いろんな人のY軸とX軸のパラメータを想像して入れてみて、この座標軸にプロットして遊ぶのも、ありかも。
 ところで、自分のことは自分で決める、この自己決定権が自由の本質であり、人権の本質的な原理だと思うのですが、若い頃は、自己決定権があるから、自己決定力(または自己制御力)もあって当然と私は思っていた。いやいや、人は、思ったとおりには動かないものやんな、たとえそれが自分自身であっても。逆に言えば、自分も含めて人を思った方向に動かしたかったら、動かしたい人をよく分析し(本当のところ何を望んでいるのか、結局のところ何がしたいのか、どんな尺度で周りを観たり、判断しているのか、など)、戦略をよく練って、実行せなあかんのです。思ったように動かないからといって、ただ、怒鳴ったり、叱責したりするだけで事が運ぶなら、生きることはどんなに簡単であったでしょう。とにかく、自己制御力こそ主体の力量なんやが、私の場合は、山ほどの失敗の経験の中で、ほんの少しやけど学んだ事をなんとか還元することで、今はある程度、望んだ方向に自分を導くことができるようになりました。そのことは、いつかどこかで語るとして、話を座標軸に戻しましょう。
 この価値の座標軸のうち、第2、第4象限の、「正しいけど嫌なこと(したくないこと)」「間違ってるのに好きなこと(したいこと)」をどう克服するか、というのが、私の若い頃の中心的なテーマでした。しかし、今は、それが克服すべき事だとしても、前述の通り、自分を叱責するだけで解決できるとは思わない。それよりも、こんな矛盾した状況に、なぜ自分(或いは人)が陥っているのか、そのことを、少し詳しく調べてみないといけないのではないかと思っています。
 例えば、その「正しい」の正しさは、そもそも本当に正しいのか。前回の人格の構造で述べたように、ある欲求の実現のための道筋として主体が提示した当為が、実体にとって欲求に転化できるような「正しい」道筋を構成しているのかどうか。逆に言えば、主体の提示する当為が、実体にとって欲求に転化しにくいような配慮が足りないもの、もっと言えば、稚拙なものであったなら、「正しい」からといって、無理やり口に詰め込まれても、「嫌や!」っていうしかないよね。反対側の、間違ってるけどしたいことでも、同じことが言えると思う。本当にそれは間違っているのか、を精査しないといかんやろうし、たとえ間違っていたとしても、そのリスクを承知した上で、欲求を通してあげてもいいことも、あるやんな。また、上述したように、少しやばめの欲求でも、リアルで叶えられないなら、想像の世界でやってみるとか、その実体に合った魅力的な代替案を創り出す主体の力が試されるのではないかと思います。
 さて、と。ここで一度、「正しさ」について、整理しておこうと思います。
 前回の人格の構造の中で述べた正しさは、実体の欲求を実現するための、主体が立案し提起する手順の整合性という意味でした。生きる上で、自分の望むあり方を実現していく際に、頭がいいなと言えるような人は、この主体の生き方の立案力のある人ということになります。言い方をかえると、自分の実体の性質をよく見極めた上で、上手に実体を望む方向に導く教育力のある人と言えるのかな。
 ところで、Y軸については、私は正しさをその価値として採用したのですが、ここで言う正しさは、実体の欲求実現のための手順の合理性というよりは、人が人として目指すべき価値という意味のほうが大きいと思って下さい。(「正しさ」という言葉の意味の重構造は日本語に限って言えることかもしれんけど、とにかくこの問題はここではスルーします) そして、Y軸が、人が目指すべき価値というなら、正しさに限らなくてもいいやんな。人が考えや行動の規準としている「価値」って、「正しさ」だけじゃなくって他にもたくさんあるやん。なんか、今となっては、できるだけ避けたいと想っているプラトン的(?)発想なんやけど、目指すべき価値をランダムに列挙すれば、正しさ、善さ、美しさ、楽しさ、強さ、清らかさ、神聖さ、正常さ、などなど、オールスター的にぞろぞろ出て来ますやんか。蛇足ですが、これら価値は、もちろん二値をとり、ゼロを起点としてプラス側とマイナス側に伸びる数直線として表現可能です。だからこそ、どの価値も、それが価値である限りY軸にすることができるし、どの価値を置くかは、人それぞれだったり、社会や時代や地域によって違ったり、ひとりの人の中でも1つとは限らないでしょう。とっかえひっかえできるアタッチメントみたいに、その時の気分で変える(変わる)なんてことも可能かな? はい、それ、ありです。生き方の味変みたいで楽しいかも。や、しかし、アイデンティティええんかっていう話やけどな。
 また、これは笑えん話しやけど、自分の外から、例えば、国から、価値を押付けられることもあるやん。また、押付けられているのに、自ら選んだと勘違いさせられている場合もあって、事は複雑です。前に言ったように、自由の本質が自己決定権とするなら、これはその権利の侵害であり、一般に思想信条の自由をおかすという罪であったりする。今(02.01.2023)まさに、ロシヤの国内でウクライナへの「軍事作戦」に反対を表明する言動をしただけで、検挙、投獄されるなんて、21世紀とは思えんような、国による人権侵害ですよね。
 また、それが小さなコミュニティなら、パワハラやモラハラなどのハラスメントやいじめに通じる恐ろしさがあります。
 こんな風に、強者による弱者へのいわれなき迫害に対して、反論反撃の(ほぼ)絶対的な根拠となってくれる人権思想って、ほんまにありがてー。そのために、場合によっては(いや、多くは)命がけで闘った沢山の先達やご先祖様に感謝、合掌やで。
 もとに戻すけど、Y軸にどの価値を置くか(場合によっては置かないか)は、あくまでその人が決めることで誰からも、何ものからも強制されないことを大前提にした上で、敢えて言うけど、価値の序列ってありますやんか。若い頃の私の場合は、1位 正しさ でした。しかしながら、2位 善さ とは僅差で、悩んだのです。だってさ、順位をつけるバトルとしては、「正しくても悪い」「間違っている(偽)けど善い」って、どっちが勝ちだと思いますか? 正しくても悪いって、あかんやつやんな。けど、結局、正しさに落ち着いたのは、前述の論理的整合性という意味(やり方合ってます)と、倫理的価値(あんた偉いやん)ていうどっちも取りしたかったからかな、と想います。けどね、それとは別に今、目の前にそんな若い頃の自分がいたら、こう言ってやります。
 あんたさ、正しいの、善いの、言うてるけどさ、自分の中で4〜5位くらいの美っていう価値(綺麗やっていう気持)から、こっちにしよ、つって「間違ってても悪くてもええねん」言うて選んだこといっぱいあるやろ!
 という訳で、やっぱプラトン的な捉え方は、身も蓋もないけど、個人の選ぶ価値なんて、どっちでも、なんでもいいやん、て話しになります。(なります?)
 ていうか、実際の人の生き方って、そんな抽象化された、まるでドライフルーツみたいな価値なんかから導かれるものではないよね。もっと具体的な、みずみずしい林檎だったり、みかんだったり、バナナのように、例えば「サッカーもっと上手くなりてー」とか「車大好き、乗るのも、いじるのも」とか「猫大好き、動物のこともっと知りたい」とか「なんか困ってる人を助けたい」といった比較的大きな(自分にとっての)欲求によって動かさているし、実際にはもっと生々しいその人だけのドラマがそこにあるはずですよね。
 反対に、その一瞬や瞬間を切り取ってみれば、バナナばっかり食べて生きていけるわけないように、大小さまざまな欲求が渦巻く中で、沢山の当為と欲求が複雑に絡まり合って、物申す実体もあれこれ言ってきて、交通整理する主体は大忙しでしょう。
 そもそも、これこそが「正しい」というものです、みたいな行為や態度があるはずもないねんな。よく言われることやけど、例えば「時計」が、あなたの腕に巻いてるその黒い時計とかロンドンのビッグベンとかに直接依存していない(抽象的)概念というもので、世界中のありとあらゆる時計を壊しまくったところで「時計」というもの(概念)が消えてなくなるわけがないやん。そして、今では携帯電話で時間がわかるから、(今までのような)時計は要らんねん、といったところで、やっぱり「時計」という概念が消えてなくなる訳ではない。ただ、「蒸気機関車」のように、「時計」に対応してくれる実物がこの先見当たらなくなってしまうということはあるかもね。
 もとに戻すけど、もともと抽象的な「正しさ(みたいな価値概念)」も「時計」などの物的抽象概念と大差なく、実際に「正しい」と評価される行為や態度、生き方は、時代や地域、大小様々な共同体によってまちまちであり、同じ「正しい生き方」という言葉で言ってみたところで、具体的に照らし合わせてみたら「え? 嘘やん。全然ちゃうし。あんたのゆってる正しい生き方って、おかしすぎる!」てなことになるんやないですか。つまり、私が「正しい生き方」と言ってみたところで、それは、今の私にとっての「正しい生き方」なのであって、私にしか通用しないし、私にしか解らないし、なんなら、それは具体的にはどんなふうに「正しい」? それはどんなふうな「生き方」? って聞いてみたくなります。結局のところ、あんたがどう生きたいかっていうことやし、逆に、どう生きたらええんか解らん、ていうことを言ってるだけちゃいますか、ってなる。
 こんなふうに言うと、元も子もないみたいやけど、それでもなお、かつての私がバタバタもがき、そして今も時々行き詰まったときに紐解くように、あなたの生き方が、こんがらがったり、複雑に絡まって身動き取れなくなったときに、お粗末ながら、この価値の座標軸が、少しでもお役に立てたらいいなと、今は想っています。
 
 ともあれ、こんな感じで初めは、「正しい生き方」がしたいねんけど、どうする? てとこから、自分のためだけにあれやこれや考えた結果が、人格の構造だの、価値の座標軸だのといったものを生みだしていったんやけど、現実の人生は、自分だけで生きていけるわけがないって言うか、逆に、生きてくことって、その殆どが、自分と人との交わりの中にありますよね。自分と向き合う人っていうのは、もちろん自分自身も含めて、身近な親や子供や家族、友人、同僚たちや、ほんの少し触れあうだけの買物に寄ったお店のおばちゃんであったり、さらに言葉や音楽、絵や構造物などの文化や文明を通して触れあう人たち、そんなリアルから時空を超えて関係する無数の人たちまで、いろんな人たちに囲まれて、もまれるように右往左往しているのが、実際の私たちの置かれている現状だと想う。なので、私(ひとり)の生き方を追求するとしても、一筋縄では解らない不思議な、人と人との関係論(倫理)は、避けては通れません。
 また、始まりはあるものの進化し続ける人間とそれを包含する生命や、更にそれを取り巻く世界(宇宙)という「無限」に、誕生と死に挟まれた「有限」な個体という特殊性をもった私という実体を繋げるゲートのような主体(=私たち人間という視点)からなる構図を考えるとき、いっぺん生き方から離れてもう一度、「正しさ」の意味を掘り下げてみないとあかんのちゃうかと想ってます。
 どっちも、どきどきもんやと私は想ってるんやけど、あなたはどうですか?

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