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生き方論的ななにか あと倫理とか 詩とかも 第6回 正しい正しさを求めて (その3) 他者との関係と価値観(って、倫理のことやんか)

 今回は、生き方論のなかでも、自分と同じ個人である他者との関係を、「価値観」(便利な言葉やん)というキーワードを手がかりに考えてみます。

 経験から言うと、他者との関係を深く持つ者ほど、その人の価値観は変化していく。その価値観の変化が成長なのか、変容なのかが問題なのだ。変容といえば、チェーホフの「可愛い女」を思い出す。様々な男性の価値観を吸収しては変容していく彼女、まるでアイデンティティーくそ喰らえな人格を私達は果たして人間と呼ぶことができるのか。
 一方、自分として完結している人は、揺るぎない価値観を持っている。(当たり前か) しかし、その人と対する私からすれば、少し寂しい気分となるのだ。なぜなら、他者を欲する理由は、自分の欲することを満たして欲しいから。そうで無ければ、このような人は、他者への関心は持たないみたい。自分の(フィールドの)ことばっか話すやつおるやろ。いや、お前もやろっていう声は、ここでは無視します。
 また一方で、自分はなんの関心も無かったモノ(物or者)も、私と対するあなたが(実在の人でなくても、リアルタイムでなく過去の誰かであっても、その他者が)欲しているがゆえに、今まで私が見向きもしなかったモノへ指向する私が出現するという事実を、どう評価するべきなのか。大貫妙子さんの歌の中で、「(遠い席にいる)あなたが笑うと私もなぜか楽しい気持ちになる」ということの意味は何なのか。あるいは、サディスティックミカバンドのタイムマシンという歌の中で「私の好きなあなた、あなたの好きな私、その私を好きな、あなたを好きな私」みたいな詩をどう解釈すればいいのか。
 私って何、私って誰、状態なんやけど。問題の本質は、結構根深いものがありそうです。
 よく考えると、揺るぎない価値観があっても、自分とは違う価値観を受容できるようなできた人もいる(かな、やっ、いそう)やんな。要は、その人が、どれだけ自分とは違う価値観(人)を受け容れることができるか、ということと、どれだけ自分とは違う価値観(人)を欲している、あるいは興味があるか、ということとは違うということなのかな。もちろん、他者への興味があるから、他者を受容する力が成長するということもあるかもしれない。しかし、一方で、興味があるとしても、他者を受け容れるかどうかは、「力」といったものではなく、ある基準を元に、取捨選択しているとも考えられる。とすれば、その基準とは何か。そう、好or嫌、正or偽、美or醜、つまりその人固有の価値座標に拠るものなのだ。(なのか?)
 で、例えば、自分と違う価値観(人)に対する興味があるとして、その関心度がいくら強くても、その価値観を受容するとは限らない。そこには取捨選択があって、「オモロ、やってみよ」っていうときと「オモロ、けどありえん」ていう場合がありますやんか。極端な話し、猟奇殺人(犯)に興味があっても、受容するかどうかはその人次第やんか。ただ、私が注目したいのは、猟奇殺人を(自分の生き方としては)拒否する場合の理由は、人それぞれであって、それこそ固有の価値観がそこにあります。例えば、「やってみたいけど、やったら人生終わりやし、想像だけで我慢我慢」ていう人もいれば、「やってみたくもないし、許せん、人としてありえんのに、どうしてそんなやつが生まれ、野放しになるんや、何で? そこが知りたい!」という人もいるだろう。しかし、それが、人前で堂々と屁を放く奴やったらどうやねんな。ものを食べるときにクチャクチャ音たてる奴ええのんか? タバコや空缶をポイ捨てする奴どうなんや? つまり、許せん、というときの根拠は、人それぞれってことで片付けてええのんか、っていう話や。猟奇殺人許せん、人前で屁を放く奴許せん、クチャクチャ音立てて喰う奴許せん、タバコや空缶ポイ捨てする奴許せん、いずれも許せんは人それぞれで片付けていいんやろか。
 一方、もう最近は呪縛から解き放たれたLGBTQをあなたは受容しますか。あるいは、逆に、かつての、人種や民族、性差によって優劣があるという考えも、あなたは受容するのですか。蛇足ですが、この場合に限っては、受容という言葉には、自分自身というよりは、自分自身も含めた人として取捨選択すること自体を含めてます。(つまり、私の好き嫌いだけでなく、人類みんなが持つべき正しさという意味)
 さて、ここまで考えると、私やあなた、人それぞれでいいけど、全てが許される訳ではないということが分かりますよね。つまり、「1+1は2であるべき」のべきと「人は✕✕であるべき」のべきが限りなく一致する場合があり、人は、✕✕の中身を、長い歴史の中で不可逆的に守るべき正しさとして積み上げてきたのです。
 カントさんは、正しさの中身を問うべきではなく、正しさそのものを問うべきみたいなこと言ってたようやけど、私はやはり、現時点での人類が到達した最高の価値(観)、つまり人権と民主主義にたどり着かざるを得ないと思うのです。人権に関しては、今や人だけでなく、動物や植物すら、生存権を認めよう(設定しよう)という動きが未来に向けて伸びて行ってますよね。
 しかし、ここでは、そんな切札を切る前に、我々が守るべき暗黙のルールについて考えてみたいと思うのです。それは、人権だ、民主主義だといわれるはるか以前のいにしえに、古代の賢人がたどり着いた真理、「人にしてもらいたいと思うことは、あんたがまず人にしてあげなあかんやろ」by イエス・キリスト または「あんたが人からして欲しないと思うことは、あんたも人にしたらあかんやんか」by 孔子 という倫理観、これ以上のものは、他にないと私には思えます。この原則(数学なら定理)を、ここでは自己矛盾回避原則と呼ぶことにします。
 さて、しかしながら、この最高の倫理基準にも欠点が2ヶ所あるのです。ひとつは、この両者ともに、私とあなたが同じ「人」であることが前提だということ。逆に言えば、あなたと私は同じ「人」と思えない、そして同じ「人」と扱わないところに人類史の闇が今もなお息づいているのです。もちろん、私は、それが闇の原因だとは思っていません。むしろ、闇を原因とした結果が、自己矛盾回避原則を逆に回避させてきたと思っています。では、人類史の闇の正体は何か、はまたの機会に譲るとして、この闇は、少なくとも、ジェンダー平等やサステナブルな社会と地球環境が叫ばれる現代において思想的には、解消されていく方向性を確保したと思えます。(いや、そう想いたい)
 さて、欠点のふたつめ。類的には、解消されていく方向を確認できたとしても、今を生きるわたしたちにとって、特に、多様性の受容(こんなに違うけど、おんなじ人間だという「常識」)を拡張し続ける現代において、自分のして欲しいことが、あなたのして欲しいことと同じである保証もないし、言っちゃあなんだが昔と比べたら同じである確率も低いんちゃいますか。逆も同じ。自分はそんなことして欲しくないと思うことでも、実際、あなたの相手は、それをしてくれ言うてんねん(声に出しては言うてへんけど)、何で分からんかな(怒)っていうこと、あるあるやろ。
 イエス・キリストや孔子が生きてた時代と違って、おんなじ「人」というバカでかいくくりだけが唯一の大きな意味を持つ中で、何十億という個々の人の数だけ違いがあるから、自分を基準にした、して欲しいこと、して欲しくないことなんて相手に通用することのほうがむしろレアですやろ。特に、現代に生きる私達にとって、自分の価値観や生き方と、自分とは違う他者の価値観や生き方とをすり合わせることがいかに大切で、なお且ついかに大変なことなのか、その内容が見えてくると想うんやけど。
 しかしながら、イエスや孔子が生きていた時代の人々も、グローバルに繋がり合う現代人ほどではないにしても、色んな人がいたはずで、小さなコミュニティの中でさえ(いや、だからこそか)人々は、それぞれの際立つ個性を光らせて生きていたことでしょう。そんな人々の中で、イエス・キリストや孔子は、なぜ自己矛盾回避原則を唱えなければならなかったのか、ていうとこやんな。
 ここからは、私の勝手な想像なんやけど、イエスも孔子も、周りの人たちの中に、「言ってることとやってることがちゃうやんか。」的な、おバカでは済まされんバカがよおけ(沢山)おったんちゃうかと想うんです。つまり、自己矛盾回避原則を声高に主張せなあかんということは、逆に、自己矛盾野郎が何食わぬ顔でいっぱい闊歩していたのではないか、ということです。まあ、現代でも、そんなバカはいるにはいるけど。ただ、人権思想や民主主義が(それを本当のとこ理解してるかどうかは別にして)社会的に一定の力を持っている現代人にとって、そんなバカ野郎を影に追いやることは、それ以前の人たちと比べて容易であることは間違いないでしょう。ここには、我々の抱く人間観の中の同一性と差異性が、古代と現代ではかなり違ったものであったのではないか、という疑問が浮かんできます。
 ともあれ、この「自己矛盾野郎」を巡る謎や、自己矛盾回避原則と、現在の人権思想や民主主義との関係は、いったいどうなっているのか、今後も続けて考えていきたいと想っています。

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