生き方論的ななにか あと倫理とか 詩とかも 第5回 正しい正しさを求めて (その2) 正しさの循環とサステナブルな生き方の構築

 前回は、生き方から離れて「(数学的)正しさ」について思考を巡らしたんやけど、正直なところ、かなり居心地悪かったです。あっち(数学の女王さま)も、なんか私達のこと嫌ってるようで、多分、「やだぁ、人間の匂いがする、誰か、この臭いのもと抹殺して頂戴!」てなことゆってる気がする。でも、侮れないし、捨て置けないのは、あっち側(物質や空間や無限)と繋がってるし、私達をそこに繋げてくれるからかな。ま、その辺りの関係性(人間と生命と物質界)も踏まえて、再び、生き方論に帰ってみます。なお、「正しさの循環とサステナブルな生き方の構築」って言ってみたけど、言ってみたかっただけです。内容とあんま、リンクしてないと思う。ごめんなさい。

 生き方の構成要素としての欲求と当為は、実は内側から見た概念なんだよね。つまり、人の生き方を外からみたら、目的と手段(方法)と言い換えることができます。そして、そう言い換えれば、実は、人間の枠を超えてしまいます。だって、僕らから見たら、どんな動物も、植物も、もっといえば(生物かどうかも怪しい)ウイルスでさえ、種の存続という目的を全うするために、その戦略としての方法論を世代を超えて構築し続けている。それぞれの生き物には、それぞれの方法論があり、それぞれの生き方を日々進化させ続けている。
 そして、生物という存在の前提となる物質全般に視野を広げてみれば、原因と結果とも、言い換えることができる。もっとも、そこまで風呂敷拡げたら、おかしくなっちゃうやんな。「生き方」という限り、最大公約数は「生命」であって、目的と手段(欲求と当為)と、原因と結果との間には(つまり生命と物質との間には)、埋めがたい深すぎる溝があるから。
 物質界では、エントロピーは増大する方向に不可逆的に進むといわれてるらしいけど、それが、「複雑系から単純系へ」世界(宇宙)が変化していくというのであれば、物質を前提に存在しているにもかかわらず生命は、エントロピーの法則に逆らって「単純系から複雑系」に進化(あるいは発展?)していくのはなんでやろ。生命は物質じゃないってこと? 生命も、宇宙の中で現れ、宇宙を構成する存在である限り、物理の法則に支配されているはずなのにね。
 さて、もとに戻って、正しさについて考えてみましょう。前回、さんざこだわった1+1=2といった(数学的)正しさは、我々がそれを認知することで、全人類に過去から現在、そして未来に渡って自らの同一性を直観させます。何故かといえば、その正しさは、ヒトを内包する生命を更に内包する物質界に宿っているものなので、我々の生存の前提となる存在(物質や空間)に依拠しているがゆえに、それに繫がることで、我々ヒトは共通の認知レベルを得ることができたのではないかと思われます。しかしながら、そうやって繋がることができた世界(宇宙)の中では、ヒトという存在は、あまりにも相対的で、有限で、一瞬すぎるので、私たち(地球上のヒトと生命)の「正しさ」も、あるとしても相対的で、一瞬しか成り立たないものとなってしまう。
 じゃあ、どうすんの、って話しなんやけど、ここで、秘儀「コペルニクス的転回の転回返し」を使います。(何やそれ?っていう批判めいた疑問にはお答えできません)
 ハーイ、ぶっちゃけ、時間軸の位置に関わらず「不変なもの」と比べたら、我々ヒト(&生命&それらを支える地球)は、有限で、ちっぽけで、無いところから現れて、やがていずれは無に帰する期間限定の存在ですよ。ああ、そうですよ。だけど、それがなにか? あんな無味乾燥な不変なものと比べたら、期間限定の我々生き物(それを支えてくれる地球さんも味方につけちゃう)のほうが、よっぽど生き生きしていて愛おしいやんか! だから、数学の女王さんに、臭いとか、あっちいけとかいわれたって、私達は、私達の私達による私達のための「正しさ」を守り、追求し、発展させていくべきだと想うし、私は、我々ヒトと、生命と、今のところ地球という有限なホームを守り育みたいという、ヒトとしての「正しさ」をここでは考えていきたいと思うのです(どや、ぐるっと一回りできたやろ)。
 さて、このヒトを含めた生命がもつ正しさは、目的に対する手段の有効性というところにあり、「数学的正しさ」と比べて非常に対照的な性質を持っています。そして、人類が自らの種を保存するために地球上のすべての生命を保全する必要から、ハショリますけど、先ずは人類全体の価値統一を図るため、人権思想と民主主義思想を発明し、発展させてきたのだと思います。もちろん、結果論やけどね。だから、そうせざるを得なかったとも言える。
 人類が生命の一種である限り、人類全体の共通の目的は、人類という種の存続と発展のはずなのに、地球上の生命とその基礎である物質の循環を、我々人類は、自ら作った核兵器によって何十回も破壊できるのだから、そうなれば、もちろん人類も絶滅しますよね。核兵器が人類というウィルスが地球にもたらした急性中毒症(発症すれば生存率ゼロ)とすれば、現在進行中の地球温暖化は、ヒトウィルスがもたらした慢性中毒症(諸説ありますが余命宣告されてます)ということになります。こんな中毒症が進行する中で、地球上の生命とその基礎環境を破壊して、人類だけが生存し続けることは不可能です。同様に、多くの国と国民が滅び死滅する中で、ロシヤとロシヤ人だけが存続するなどありえない。そして、あなたやあなたの周りの弱者が、弱者故に虐げられるとしたら、わたしたち皆も、虐げ、虐げられる呪縛から逃れることはできない。弱者の優位性は唯一多数であるのと対象的に、強権によって虐げる者は、より少数に収斂され、たかだか100年に満たない期限付きの個人に集中した権力は、周りを巻込んで破裂するか、大多数の弱者の凝縮された怒りの爆発と対峙して殲滅されるか、いずれにしてもこんなことをくり返していたなら、最終的に絶滅の危機を免れない。結局のところ、人類の存続は、すなわち地球上の生命と環境の存続(持続)と直結し、そしてその目的に対する方法論的答え(正しさ)は、今のところ、人権思想と民主主義を普及し持続、発展させていくことしかないと思われます。
 
 さて、人類全体としては、それでええかもしれんけど(いや、良くないねんけど)、ヒトのややこしいところは、「ほんで? それが私の人生とどう繋がってるわけ?(繋げてって頼んだ覚えないねんけど的な怒りを内包してます)」という声の答えになってないところやね。とりあえず、この2つの正しさについて、「私たち個人」に寄せて、もう少し詳しく考えてみましょう。
 数学的正しさは、世界全体を抽象しているのにも拘わらず、いや、だからこそか、その正しさは人にしか観えない。それは、逆に言えば、生き物がみな、自分の生命にのみこだわって生き方の構築に終始している中で、ヒトだけが、有限ないち個体に過ぎないくせに、ほぼ全ての個体が「無限」に想いを馳せ、自分(という有限な生命)を包含し、外側にむかって広がる正しさを掴み取ろうとしているのだと私には想えます。私が若い頃、アメリカでゴリラやチンパンジーに手話を教える実験をしていて、手話を教えた個体の子が、その親から手話を習得したという話を聞いたことがあるけど、算数(数の概念)は教えること、あるいは獲得することができたのかな。まるで、SF映画で名高い「猿の惑星」みたいに猿たちは「人間化」するのだろうか。つまり、意思疎通の道具としての言葉ではなく、思考の道具としての言葉を獲得することはできるのだろうか。そして、ヒトと同じように、その思考の果に、有限な個体としての自分を自覚し、手の届かぬ無限な世界に思いを馳せることがあるのだろうか。ともあれ、数学的正しさは、人類と人間化するかもしれない未来の猿たちだけのものなのです。
 一方、方法論的正しさは、目的に対する方法の有効性という点にあるので、その正しさは生命全体に及び、基本的には論証によってではなく、方法を実践した結果(進化論的には気の遠くなるような試行錯誤の積重ね)によって得られ、結果オーライなもの。そんな結果論なので、方法論的正しさは非常に相対的なものです。つまり、人間にとって正しいことは、猫にとって正しいとは言えないし、私にとって正しいことは、あなたにとって正しいとは言えない。また、中学生だった自分に正しかったことが、還暦を過ぎた今の私にとって正しいとは言えない。また、コインの裏表のように、正しくないからといって、間違いだとは言い切れない。さらに、同じ目的を達成するための正しい方法が、何故か対立を生み出す場合もある。
 以下、そのような「方法論的正しさ」を、具体的なケースワークで紐解いてみます。
 ここに、道路の本線に支線から合流する車同士(AとB)のこんなトラブルがありました。
 Aは本線を直進する車で、やや渋滞気味の最後尾を走っています。一方、BはAが走っている本線に左から合流していく車の列のこれまた最後尾を走っていて、前方を走っている車たちと同様に交互に(一台ずつ)合流しようとしていてAとBがその順番となった。ここで、AがBを自分の前に割り込ましてあげればなんの問題もなかったのに、Aは敢えて車間距離を詰めて、Bの割り込みを拒否した。BはAに対してけたたましくクラクションを鳴らしてAに対して抗議した。
 さて、あなたは、どちらが正しい、あるいは間違っていると思いますか?
 とりあえず、双方の正当性の主張を整理しておきましょう。
 Aの主張 無理な割り込みをしない、というルールと、本線走行車は合流車両に対して優先権があるというルールに鑑み、Bは私(A)の後方の広く空いたスペースで合流する「ベキ」であったのに、それに背いたBが悪い。
 Bの主張 本線と側道の合流地点で渋滞している場合、チャック合流(1台ずつ交互に合流)が基本であり、私(B)を合流させる「ベキ」であったのに、Aはそのマナーに背き、車間を詰めて危険な走行をした。
 なんか、どっちもどっちやけど、この双方の「ベキ」が、1+1が2である「ベキ」と全く違う「ベキ」であることは、明らかだと思います。
 少しずれるかもですが、私は、道路交通法は、数ある法律の中でも、かなり民主的な法律だと思っています(てか、他に詳しく知ってる法律ないけどね、ごめんやで)。なぜなら、1つに、(交通)弱者の味方であること。例えば、歩行者と車との接触事故があった場合、たとえ歩行者が信号無視していたとしても、歩行者の責任は問われない(実質的にね)。2つに、目的(安全の確保)のためなら、重大なルール(例えば車の左側通行)であっても、必ずしも「絶対ではない」という点です。つまり、目的(安全の確保)をあくまで重視して、自ら定めたルールもいち手段として相対化している点です。まるで方法論的正しさの性質(目的達成の手段は多元的且つ相対的)を十分に理解しているように、自ら(規則=手段)を目的とするような主客転倒に陥ることなく、その意味で非常に謙虚であることは、私的には高く評価している点です。
 さて、もとに戻って、AとBのトラブルですが、車同士のトラブルって、なんかお互い感情的になる場面って、多くないですか? このことは、この2つの正しさの性質の違いを混同しているところに問題点があると、私には思えるのです。
 近代以降の公教育においての算数や数学は、科学技術とその基礎理論に支えられた工業生産社会にとって、そこに従事する労働力の質を向上させるために必須の科目であり、現代社会において、車の運転免許を取得できるような者は公教育(義務教育)の中で、必ず習得しているはずのものです。そして、そんな我々現代人にとって、「正しさ」あるいは「正しい答え」は1つ、または相反する場合の一方が正しいのなら他方は間違っているという刷込みがなされているのだと思うのです。だから、全く違う2つの「正しさ」であるのに、どうしても正しさというと、数学的正しさに引きずられて、答えは1つと思ってしまう。そして、こちらが正しければ、あちらが間違っている、てことになっちゃう。公教育の功罪ですね。でも、現実には、「安全の確保が最優先」という正しさを、AもBも守らなければならなかったのに、自分の「正しさ(自分のベキ)」を守り、あるいは相手の「間違い」を非難するために危険な運転をした時点で、二人とも間違っていたと言うのが事実だと私は思います。
 安全確保が最優先という道路交通法のもとでの数々の規則(正しさ)は、極めて結果論的(従って相対的)で、同じ規則でもその状況(結果)によって正しかったり正しくなかったりします。(例えば、交差点を通過しようとする車が、自分の信号が青だからといって、信号が赤なのに横切ろうとした自転車をはねてもいいのかっていう) それに対して、数学的正しさは、勿論極めて自立的で、たとえ具体的事例で反証されたとしても、まったくその正しさは、揺るがない。
 この2つの正しさの際立つ対称性を理解した上で、最初に立ち戻ると、この二つの「正しさ」が、ひとりの人間の(私やあなたの)生き方にとってどんな意味があるのか、あるいは、どんな問題が隠されているのか、この後も解き明かしたいと想うのですが、以下に、ここまでで、分かったこと、あるいは視えてきたことを、簡単にまとめてみたいと思います。

 数学的正しさは、時間軸のどこを取っても変わらない。ていうか、我々生命体からすれば、そもそも不変であり、良く言えば、憧れの永遠性を体現しているし、悪く言えば、忌むべき死を意味している。なので、私達の生き方に、直接代入はできない(そらそうや)。数学の中に私たち人間が生き方の謎や問題の解決を期待できないのならば、数学的正しさを人の生き方の中で意味をなすものとするためには、人の言葉に翻訳しなければならない。それは、証明する必要のない自立した正しさの発見または発明、ということになるけど、そんなものあるのかな。
 また、別の視点から、数学的正しさの人類にとっての意義は、時代や民族、場所や性別に限らず、すべての人間が、共通の「正しさ」を認識できるという極めて高度な同一性を証明しているという点である。それは、まるで、ヒトの遺伝子の同一性と呼応しているかのようです。
 後者については、現在の60億人という想像を絶する数の人々のみならず、認知革命を経た後の過去の人々全てを含めた全人類が、「1+1=2」を無条件に「正しい」と認めることが、お互いに無条件に「わかる」という、こんなにすごいこと他にありますか。しかも、多様な生物の中のヒト(ホモサピエンス)というたった1つの種のみに限られた「相互同一性の共通認識」なんやで。こっちのほうは、意義深いような気がする。
  一方、方法論的正しさの問題は、個人と個人の関係論(倫理かな)、個人と類(個と共同体)との関係論(これも大きくは倫理かな)とも捉えられる。後者については、個人の生き方の中で、ある欲求または目的があるとして、その出発点(あるいは根幹)が、そもそも共同体の目的に照らし合わせたとき、はたして「正しい」と言えるのかどうか。それを照査したのかどうか。また、一口に共同体というが、それは、わたし(あるいはあなた)が住む国のことなのか、民族なのか、人類全体のことなのか、によって、個と共同体の間に生まれる協調あるいは葛藤が、全く違う様相を呈することは、想像できますよね。

 なんか問題が、多方面に拡散しているような気がするんやけど、ええんかな? ま、とにかく、これから先も、それぞれについて、もっと深掘りしていきたいと想ってます。乞うご期待。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?