生き方論的ななにか あと倫理とか 詩とかも 第4回 正しい正しさを求めて (その1) 1+1=2はなぜ正しいのか

 前回の最後の方で述べたように、ここでは、生き方から一度離れて、正しさの意味を掘り下げてみたいと思います。何で「正しさ」なのかといえば、ぶっちゃけ私が、やっぱり「正しさ」にこだわりたいから。「善さ」とか「美しさ」とか「楽しさ」の方が面白いのにぃ、っていう人は、それにこだわって下さい。そして、あなただけのこだわりから巡らせた思考の旅路を、ぜひ聴かせて欲しいです、本当に。
 さて、私のこだわっている「正しさ」について巡らせた思考のその一歩目は、数学的正しさについてです。と言っても、出発点は、あまりにも単純に、1+1=2はなぜ正しい? ってところから。

 1+1=2に対しての反論はいろいろあるけど、半ば強引に、私の頭(心)は、それが正しいと言い張るのです。1(数)という概念が量や質を更に抽象した、いわば蒸留酒のようなものと割り切ったとしたら、その量と質の割合? あるいは役割? は微妙に違うと思える。では、量とはなにか、質とはなにか。
 どちらも事実ではあるのだが、量は人間を介さずとも存在する物質の属性とすれば、質は人を介して初めてその存在が現れる現象とでもいうのか。
 例えば、光というものがあります。光はある一定の範囲の周波数を持つ電磁波だと言われています。その強さは、人に見えようが見えまいが、一定の強さがあり、それは、量で計ることかできます。しかし、色はどうでしょう。赤は人間にとってのみ意味のある概念であり、人間を前提条件として存在している、といえるものですよね。人間にとって赤という色は確かにあるけど、鳥には見えない、つまり、鳥には人間がみている赤という色は見えない。逆に、人間にとって紫外線は色がない光だけど、鳥には見えているらしい、紫外線色がです。どんな色なん? て鳥に聞きたいけど、色んな意味で色は、あってないものです(お洒落なシャレやろ)。そんな、色んな色を、ある=存在している、と言っていいのか。つまり、量というものが、人間を介さずとも存在する属性であるなら、質は、人間(の言葉)を介して初めて存在する属性、ということになる。属性って便利な言葉やから使いました。だってこうして使ってる言葉が人間を前提にしたものだから、突き詰めるとループしちゃいそうなんで。とにかく、砕いていうと、「赤色」のように、人だけにある(現れる)ものは、人がいなかった過去にはなくて、人がいる今は、人にとってのみあって、人がいなくなったらなくなるものを、物質や空間と同列に「存在する」というわけにはいかんよね。そして、社会や社会にまつわるものも、歴史や歴史にまつわるものも、考えてみれば、私たち人間の周りにある、私たち人間が見ているものの殆ど全ては、物質や空間と同列に「存在している」というわけにはいかんものばかりのように思えます。
 というわけで、数(1とか2とか)の概念は蒸留酒やけど、その成分比率は、質よりも量のほうが[上]のようです。また、1+1=2という計算式を成り立たせるためには、質の混入は許されないみたい。例えば、1を、順番としての1と考えたとき、1+1=2は成り立ちますか。ていうか、1番+1番=2番ていう式の、意味わからんし。また、さっきまで話してた「色」で言えば、赤色(1色)+青色(1色)=紫色(1色) っていう式は、1+1=1ということになってしまうやん。「じゃあ、数は量だけと考えたらいいやんか」って半切れして言わんといてや。アルコール1リッター+水1リッター=アルコール水2リッターになると思う? 思うとしたら、あなた勉強不足です。アルコール水は、ビー玉と米粒混ぜた時みたいに、アルコールの分子の隙間に水の分子が入るから(あれ、逆やったかな?)、混合されたアルコール水は、2リッターより少し体積が減るんです。じゃあ、もう、質量に限ればいいやんか!って、全切れで叫ばんとってや、もう。そうやって、量のうち質量のみ、なんて限定したら、1+1=2の正しさは条件付きとなり、逆に言えば、その数式のみでは無条件に正しいといえないと自ら証明している事になりませんか。
 以上のごとく、1+1=2を証明することは、私には不可能に思えます。それどころか、たくさんの反証が上がってきて、もはや現実の世界の中で、まるで宙に浮かんだ風船のよう。なのに、私の心(頭)の中では、1+1=2なの! みんな(過去現在未来に渡って人間みんな)そう思ってるの!と断定するのです。なんで?
 
 さて、というわけで1+1=2は、正しいはずなのに、何故か、現実にはそうならない反証ばかりが浮かびあがってきて、少なくとも、私達は(私達人間の)現実の世界で1+1=2を証明することはできない。逆に、数の世界は、私達が生きている世界とは全く違う次元で1つの閉じた(完結した)世界を形成して、正に異世界として成り立っていると考えざるを得ません(数学共和国やで、やっ、数学は科学の女王説で言えば、サイエンス王国なんか?)。しかし、あなたは言うかも知れない。「だって算数や数学はそうやって成り立ってるんだから、しょうがないやん、何こだわってんの? 1+1=2は、数学の世界の中でのみ正しいと言えば、あんた納得してくれるわけ?」 こんなもっともな苦情(?)が聞こえてきます。ほんま、ごもっとも。だけど、私が引っかかっているのは、わたし自身が心の奥底で、1+1=2は証明しなくても正しい、となんのためらいもなく、なんの疑問の余地もなく断定していること、そして、それが、人が人である限り、時間と空間を超えて、みんなそう思ってるよ、と、いともあっさり断定している点なのです。まるでSFの世界のテレパシーのように、このことが全人類(今のところホモサピエンスに限る)の個々の心の奥底で結びついている事が、無条件に分かる(感じ取れる)ことが不思議でならないのです。
 「全人類って、大風呂敷広げすぎ。あんたさ、近代以降にできた学校(公教育)の中で、そう教え込まれてきたから、1+1=2が無条件に正しいと、みんながみんな思うと考えてしまうだけやで」なんていう反論が、聞こえてきます。
 確かに、農業革命と前後して、世界を数理的に把握する必要から数学的認識を発達させてきたものの、産業革命までは、数学(的探求)は、一部の支配階級が土地や富を把握し記録するために使われたほかは、ほんとに個々の生活の中であまり役に立たない、道楽のようなものでしかなかった(とここでは言っちゃう)。しかしながら、産業革命に前後して、工業的生産の発達とその基盤である技術の根拠となる科学と、さらにそれら科学の根底を支える数学(的思考方法)は、にわかに、近代以降の人間にとっては必須となってしまった。より質の高い労働力を育成するために公教育が世界中で整備されていった後、人種、民族、文化を問わず、今や世界中のネットワークのもとで工業生産社会が成り立っているのだから、いまさら1+1=2に疑義を挟んでも、現実の今の社会を否定できるはずもない。たかだか百年余りの公教育ではあるものの、その公教育の恩恵を受けた人たちにとっては、すでに成り立っている現社会を根底から覆そうとするような、そんな戯言に耳を貸すとは思えない。つまり、1+1=2が正しいと思うのは、確かに明確な根拠はなく、単にそう教育されてきたから、そして、それが正しいと証明できないとしても、それが間違いだと言うことは、いまの世界中の人類が到達した現在の科学技術文明によって成り立つ現実を否定することになるのだよ、という暗黙の、脅しにも似た圧力を私は感じます。
 ここで、とりあえず、1+1=2が証明抜きで、全ての人間が正しいと感じるのは、近代以降の公教育がそう教えてきたからだ、ということにしてみましょう。すると、それはそれで、あまたの疑問がぞろぞろ湧いて出てきますよね。たとえば、そもそも、1+1=2は間違っていると教育したら、そう思うのだろうか? 百歩譲って、それは、正しい場合と間違っている場合があると教えたとしましょう。そしたら、数学の問題に対する答えは、すべて真偽の判定ができなくなり、今まで積み重ねてきた何もかもは崩れ去ってしまうではないですか。
 「じゃあさ、1+1=2は、結局のところ、正しいの? 正しくないの?」って聞かれたら、無条件に正しいと言うしかない。そして、なぜそうなのかといえば、近代以降の公教育がそう教えたからではなく、矛盾するようですが、歴史が証明したと言わざるを得ない。
 たとえば、近代以前の最初期から(勿論以降もですが)数学の歴史の中で、正しくないことをごまかして正しいとゴリ押しした学者が一人でもいましたか? ピタゴラス学派の通約不可能性の発見なんてその典型やんか。きれいな数字やきれいな比によって世界は成り立っているという教義を掲げる彼らにとって、一片1メートルの正方形の対角線がおかしな数字になるということを自ら証明したのは、痛恨の極み、さぞ辛かったに違いないけど、絶対望まない結果でも、それが正しい(つまり人が人である限り認めざるを得ないということが分かっている)のなら、ごまかしようがないということを解っているという一点で、同じ人間なんやと私は感動してしまいます。(もっとも当時、オカルト教団的だったピタゴラス学派は正方形の対角線が訳のわからん数字であるということをひた隠しにし、それを口外した裏切者を海に突き落して溺死させたんやて。ヒドイよな) ともあれ、近代以前は特に人の生活に特に役立つこともなく(いや、だからこそか)数学は独自の文化として世界各地で発達していったのです。どの文明圏でも、数学はそれぞれのやり方で発展していったようですが、間違いを誤魔化すようなことがなかったのは、高い倫理感からではなく、むしろ逆に、どんだけ願っても、恣意的な結果は得られず、強い直感で(数学的)正しさは曲げようがないことをみんな感じていたからなのです。そうして発展してきた数学(に関わった人達)とともに、時と空間を超えて全ての人間に同じように通じるなにかがあるからこそ、1+1=2(的な数学的正しさ)は、無条件に正しいと言えると思うのです。
 そして時代は、産業革命を迎えます。主に物の性質を知り、それを自分達が利用するためだけに、様々なデータを数学(の世界)にほりこんで、共通の物差しと天才的アイデアをもとに科学技術を発展させ、今や地球規模で自分達の身の回りを、自分達だけが望み、自分達だけに意味のある形に作り上げていった人類にとって、その寸分たがわぬ世界的共通性は、良くも悪くも、科学技術とその基礎である数学の正しさを証明しているようなものと言わざるを得ません。そして、そこから、人間の数学的正しさは、物質や空間といった人間を前提としない「存在」と、正しく(正確に)繋がっているということが見えてくると思いませんか。だからこそ、私たち人間の匂いのするもの(質的なもの)では、1+1=2(数学的正しさ)が証明できないのは当然の事だということが分かりますよね。逆に言えば、1+1=2(数学的正しさ)は、物質や空間といった、人間を含めた生命以前の「存在」とまっすぐに繋がっているからこその正しさがそこにあるのではないかと思います。つまり、有限なもの(人間的なもの、生命的なもの)で、無限(物や空間)を計ろうとしても、そりゃ無理やんな、ってことやし、無限と繋がっているからこそ、有限な私達から見えるもので証明できなくても、正しいってことが言えるのではないかと、私は思っています。
 やれやれ、ここにきてやっとこさ、1+1=2は、(論理的にではなく歴史的にやけど、そして、それが証明できなくても)正しいと考えてもいいといえるのかな。

 さて、次に問題となるのは、この数学的正しさが、生き方とどう関係しているか、という点です。一方の正しさである人権と民主主義という社会的(人間的)な正しさとどう関係しているのか、していないのか、そして、人が生きるにあたって、その正しさをどう捉えていけばいいのか。これらの問題を、この先も、執拗に、考えていきます。

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