見出し画像

生き方論的ななにか あと倫理とか 詩とかも 第7回 シーズンONE エピローグ

 今回で、「生き方論的ななにか あと倫理とか 詩とかも」のシーズンONEを、閉じようと思います。閉じるにあたって、ここまで、生き方論や倫理(みたいなこと)は書いたけど、詩(みたいなもの)はなかったやんな、と思いたったので、詩(みたいなもの)三篇を締めの代わりとして載せて、最後を飾ることにします。(そんな綺麗なもんやないけどね)

みんな独りで生きている

 みんな独りで生きている。どうすれば、そんな生き方ができるのか。どうして私には、そんな生き方ができないのか。
 私が特殊だったのかもしれない。命を捧げ、命を押し売るような愛し方をして、そして、振り切られて支えを失って倒れ込んでしまう。そんな、愚かな自分の中に、可哀想な女の子がいたのかもと想う。
 死にたい、とは違う。息をしているだけで苦しい自分を、どう扱えばいいのか分からず、なりふりかまわず、すがりついたあなた達は、やっぱり自分で自分をちゃんと支えて生きているから、私を観てくれるのでしょう。
 人恋しさ。半分以上の未来を眺めていた頃、甘くて涼しい風のように、私を誘った言葉は、半分以上の過去の洞穴から、たゆたう呪文のように生ぬるく私に纏わりつく空気となった。
 許してください。もう、許してほしい。諦めてください。もう、諦めてほしい。
 崩れていく自分、ほどけていく自分なのに、いったい何を力にしているのか、また、なにかに成ろうとしている。何かが生まれようとしている。いや、隠れていたお前は、閉じ込められていたお前は、本当に私の中にいたのか。本当にお前たちは、私なのか。
 邪魔などしないけど、助けもしませんよ。ただただ、観ててあげる。観ててあげるよ、しょうがない。
 成れる自分に、さあ、成ってみな。

少し解説
 1年少し前、青天の霹靂的な突然の辛い出来事があって、ヘロヘロのふらふらになった私は、助けを求めて旧友にすがりついたのでした。彼らを、無理やり私のリハビリにつき合わせた中で、なんとか自分を取り戻すことができ、巡り巡ってこのような投稿をするようになったのですが、この詩を書いた頃は、まだ、立ち上がることもできず、ただ、やっと顔を前に向けることができる程度の時だったと思います。はい、次。

雨に想うこと

 朝、3度目の新型コロナウィルスのワクチン接種を受けました。接種は何事もなく済んで、久しぶりの春の長雨のなか、行きつけのお湯場に行きました。
 雨のせいかな。妙に自分の心が、いつになく静かに感じて、その内省的なゆっくりした流れの中に、自分を沈めていく心地よさを、いったい、なんと呼べばいいのでしょう。
 邪魔してくれるのは、その対極に観える、吉本隆明さんとか、その師匠の小林秀雄さんとかの、「俺が俺だから俺なんだ!」的な騒がしい主張とか。あるいは、もっと言えば、戦争前後の「昭和」的な喧騒? 乱暴にひとくくりにして悪いんやけど、らしくない気がする。日本、らしくない気がします。
 久しぶりの長雨は、何かを囁いてくるんよ。でも、それを言葉にしたら、それは、私の事になるんよ。雨だけじゃなくて、優しい季節すべてが、愛してくれてるって想う。私が、愛するかどうかは、どっちでもいいんよね。あなたが、主人公、私が生きているのではなく、いや、生きてるんやけど、あなたが生かしてくれてる、そのことに、ただただ、私は微笑むしかないのです。
 いや、分かってますよ。こんな声が聞こえてきます。
 自然に包まれて気持ちえぇ? どうにでもして〜、やと、はぁ?! そんなんゆうてたらな、一瞬で死ぬで、あんた! 自然はなぁ、いっつも襲いかかってくるもんなんや。ちょっとでも気ぃ許したらな、皆殺しや、アホか!
 はいはい、世界の、特に、西洋の人らかな。そんなんゆうのは。ほんで、そんなん言われて、その気になったんやろ。らしくないのに、昭和の人らは。
 いや、頑張ったと思います。今も、頑張ってると思います。でも、もともと甘やかされて育って来たんやから、その素直な賢さと楽しんで努力する才能は、日本独自のものですよ。欠点はあっても、欠落したものはないし、アニメやとか和食やとか、褒めちぎられても、いやー、ほんまですかー、そんな大したこと無いんやけどー、と日本人にしか通用しない謎の自慢で煙に巻いときゃいいやん、ね。

 雨、まだ降ってます。普通に優しく、しとしとと。でも、遅くとも、明日にはやんでしまうから、今は、わたくし、この雨と、相思相愛いたします。

少し解説
 この詩を書いたのは、新型コロナウィルスによるパンデミックを経て2年が過ぎ、なんとか出口が見え始めた矢先に、今度はロシヤ(のプーチン)がウクライナ侵略戦争を始めて間もない頃です。人類史の中でも数世紀規模の大事件を2つも目の当たりにした私は、その後、若い頃に蓋をした生き方論をもう一度始めるにあたって、できるだけ、思いっきり俯瞰の高度を上げる必要に駆られたのでした。
 いま想えば、私の心の中のか弱い内省の声にも、この2つの大きな事件が強く影響しているのが解ります。はい、次。

あなたの吐いた正論が

 あなたの吐いた正論が、今もわたしを咎めるのだ。
 遠い過去の記憶から、浮かびあがっては私の頬をためらいがちに撫でていき、また、記憶の海に人知れず沈んでいく。
 もう痛くはなくなった、手に刺さった棘の痕跡は、今は昔、周りの皮膚と同化して風化していく。まるで忘れ去られた先住民の史跡のように。
 かつて、そこに私とあなたが生きていたという確かさが、危うい想いと一緒になって、私に囁いてくる。
 私はやっと、その言葉に気づくことのできる齢を得たから、あなたの望んだ正論が、今も私に問いかけるのだ。

 お前はかつて、そんなだったんだよ。私は自嘲気味に笑うしかない。咎めているのは、今の私がかつてのあなただから。そして、今の私が、あの時の私を咎めようとするその手を、あなたの正論が、そっと制するのだ。少し悲しくて、少し愛おしい想いを込めた、あなたの正論が。

 だからでしょう。あなたの吐いた正論が、今も私を生かしかしているのは。
 もう死ぬまで会うこともない、私の中のあなたや、あなたたちへ、私はこんな言葉を紡いでいきます。大切な私の中の、あなたやあなたたちのために、そして、そんな私自身のために、この先も、ずっと。

補足
 憧れの海外旅行をするために、その資金をいちからバイトで稼いでいるという大学生の後輩に、私は、親に出してもらって、とっととその地に行けばいいやん、と言ってしまった。そんな馬鹿な私に、彼女が返した言葉。

 仕事や人生に行き詰まったある女性が、それを打開しようと、すがる想いで出場したマラソン大会で、彼女は… という映画を観て、私は、これをきっかけにまた今度、マラソン大会に出場すればいいやん、と言った。そんな愚かな私に、彼女が返した言葉。

少し解説
 若い頃の、根拠のない自信と、プライド。あれって、何やったんやろか? そんなもの、振り払ったつもりやったのに、今でも時々顔を出してしまって、自分のバカさかげんがホント嫌になる。自己否定を経て正しさに近づいていくと言うけれど、こんだけ否定し続けたら、実のところ、自己矛盾のスパイラルに陥って、逆弁証法的に闇落ちしてるんちゃうかって本気で心配してしまうんやけど。この詩を書いたときは、そんな心配とは裏腹に、かなり自分を静観し、みたままを書きました的なお馬鹿な心持ちでした。ま、三篇の中では、1番詩らしいといえば、そうなんかな。

 さて、ここから先は、断片的に課題は転がっているものの、ほぼノープランです。シーズン2は、逆にいえば、もっと自由に思考の旅ができるような気がします。ここまでも、楽しかったけど、もっと楽しい旅が待っていると想います。「いやいや、いやいや、甘いっちゅーねん!」という声がどこからともなく聞こえてくるけど、いつものごとく無視して、ワクワクの2歩目を踏み出せそうです。ありがとね。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?