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生き方論の地平 第1回 意味の意味

 「なんのために」という問いの先にあるものが「意味」だとするなら、その地平の果にあるものは、なんだろう。
 
 あなたにはみえますか。そう、私にみえるものは…

 物質という存在に意味はない。生命という現象に意味がある。人間という現象が、意味を問う。ヒトが、意味を求める。
 ならば与えよう。私は、私の意味を私に。
 しかしながら、あなたたちヒトが求めてきて、今も私たちの意味を求め続けているあなたたちヒトの意味を、わたしは受け取らねばならない。なぜなら、あなたたちヒトは、私の中にいるから。私の中にいるあなたたちヒトが、私に与え続けたものを、私は受け取らなければならない。
 しかし、私はすべてを受け取らない。私が受け取るものと受け取らないもの、その選択が、私の存在の意味なのだ。遺伝子が、生命が、そうしてきたように、私も、試してみて、選び取って、そうして、私は生きていく。それが、私とあなたの、私の中の私たちやあなたたちの、そんなヒトが、生きることの意味なのだ。
 そして、意味を問う限り、意味を求める限り、私は、私たちは、ヒトは、答えを出さなければならない。

 願わくは、それが、すべての命にとっても、意味のあることでありますように。そして、すべての命を育んできた地球や宇宙や、そんな全ての存在にとっても、意味のあることでありますように。

少し解説
 ヒトにとっての文化(主に言葉によって成り立つ文明)は、生命にとっての遺伝子のような役割を果たしていると想われます。
 その時々で、個体によって様々な取捨選択がなされ、過去においては偶然の、未来にとっては必然の積重ねが繰り返されているというのが、命の実態なんやと想います。
 試行錯誤(あるいは進化)のもどかしさは、私(やあなた)のような個体にとって、類の到達点に立つための試練でしかなく、とても邪魔くさい宿題のようなものなのですが、それがヒトの意味である限り、私は敢えて、受取って、応えてあげたいと想うのです。たとえ、それが、答えになってなくても。
 でも、全てを受取る必要はないはずで、受取るべきものを受取り、捨て去るものは、切り捨てることが肝心だと思う。ただ、全てを切り捨てて、リセットすることはできない。
 そして、すべてと言うならば、そんな個体のささやかな取捨選択をできるだけ(できれば全て)伝えることが、肝心なんやと想う。
 こいつ、こんなもん選んだんや、とか、このひと、これを拾い上げたんや、とか、歓びと嫌悪を伴った私(やあなた)の取捨選択が成立つこと自体、ヒトの命のありがたい意味なのだと私は想います。

no life of human, no culture with words.

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