生き方論的ななにか あと倫理とか 詩とかも 第2回 人格の構造

 20歳前後の頃、人のあり方(行動の原動力や判断の基準となる価値のあり方など)について、自分なりに納得のいく答えを探し求めていた。今思えば、自分さえ納得できて、腑に落ちればいいってことで生まれた考えだから、独り善がりなものだけど、懐かしいから、ここに出してみます。

 まずは、人格の構造について。
 私はこう考えた。人格は、2つの要素或いは機能から成り立っている、と。1つは主体、2つに実体です。主体は、自分自身も含めたすべてを客観視する視点であり、「正しいか間違っているか」を判断する機能であって、それ自身は、人を動かす原動力とはならない。車で言えば、ハンドルとそれに付随する操作という感じかな。一方、実体とは、その人を動かすエネルギーのようなもの。「やりたいか、やりたくないか(または、単に、好きか嫌いか)」という形で人を動かしたり、静止させたり、アクセルとブレーキですね。これが、人が生きていくときの基本的な構造です。簡単に言えば、自我の構造ということなんかな。
 まず、アクセル、人を動かす原動力とはなにか。人間も動物としての生命体である限り、命と種を維持するための内から湧き上がる欲望がある。食べたい、寝たい、排泄したい、異性と交わりたい、といった欲望は、他の動物達と全く変わらず生まれたときから備わっている。しかし、それら動物としての欲望が、そのまま人を動かすということは、ほぼありえないのです。ここらへんは、発達心理学の領域なんかな。とにかく、人が人間として自らの内に自らの行動の原動力として持つエネルギーをここで欲求と呼ぶとしたら、その欲求は、人間の作り出した社会というフィルターを通して現れるのです。欲求=したいこと とするなら、人は、したいことを実現するためには、社会の用意した手順に従って行動しなければならない。反対側から言えば、社会は欲求の実現に際して人に当為=しなければならないこと を課して来るのです。
 例えば、小さな幼子が、喉か乾いたとする。水分補給の欲望はこの子を突き動かすのだが、水道の水をガラスのコップに入れて飲みたいのか、はたまた、冷蔵庫の中の紙パックに入ったオレンジジュースをマグカップに注いで飲みたいのか。その一連の動作、手順はほぼ言葉によって社会的に一般化されたものであって、主に親から、そういうふうに訓練され、あるいはそれを獲得するための執拗な働きかけを通して、その幼子が獲得した人間性によってのみ実現されていくのです。くだいて言えば、この子は、水分補給の欲望を、例えば、冷蔵庫の中の冷えたオレンジジュースの入った紙パックからマグカップにいっぱい注いで、椅子に座ってゆっくり「飲みたい」という欲求として組立て直し(或いは人間語に翻訳し、というべきか)、以下のように計画し、実行に移そうとする。まず、冷蔵庫を開け「なければならない」、冷蔵庫の中のオレンジジュースの入った紙パックを発見し「なければならない」、そしてもしそのジュースが未開封なら、開封し「なければならない」などなど。このように当為の連鎖の中で、まるで最初の欲望や欲求の実現を阻んでいるかのように、次から次へと「しなければならない」ことが湧いて出て来るのが、人間として生きるということの姿だと、かつての私は思っていました。ともあれ、私は、人格の構造のうち、上の例では「漠然と、ジュースを飲みたい」という内なるエネルギーを実体と呼び、その実現のための具体的な手順や方法を立案する判断と思考から成り立つ意思を、主体と呼ぶことにしました。ちなみに、主体にとっての正しさとは、有り体に言えば、実体から引き渡されたお題(欲望〜欲求)を実現するための手順の整合性ということになります。ここまでが、かつての私が考えていた人格の構造のようなものです。主体の発現が当為(やらねばならないこと)、実体の発現が、欲求(やりたいこと)という図式なんやが、今思えば、人がこころの中で想う当為と欲求って、固定的に捉えていいものかどうかという疑問が浮かんできます。例えばこんな感じ。
 ある欲求を持った時点で実体は、その実現の手順や方法の立案を主体に委ねる。実体から発した欲求は主体を通して、当為という形で返ってくる。その当為を実体は元々の欲求というエネルギーを注ぐ事で、次の段階の欲求へと変化させていくのではないか。実体は、主体から受け取った当為の連続を、まるでオセロのように欲求の連続としてエネルギーを通す道へと変えていくと考えられませんか。つまり、先の例で言えば、ジュースを飲みたいという幼子にとって、冷蔵庫は開けなければならない当為として立ちはだかるのだが、もしその子が自力で冷蔵庫のドアを開けるだけの体力がないとして、傍に親がいたら、親に助けを求めるとき、なんと訴えるか。「冷蔵庫開けんとあかんねん」て言うかな。いやいや、「冷蔵庫開けたいねん」て言うよな。もし、その子がうまく喋れないとしたら、親は察して「冷蔵庫開けなあかんの?」って聞く? 「冷蔵庫開けたいの?」って聞くやんな。私は、この一連の流れを見て、面白いなと思うのです。その子にとって、客観的には冷蔵庫を開けるという行為は当為なのに、その子の内側では、主体を通して冷蔵庫を開けるという行為を自ら選び、あるいは発見したことによって、冷蔵庫を開けたいという欲求に変化しているのです。そして、その先も、主体の用意した手順と指示に従って行動していく中で、実体は、それら当為を内部で欲求に転化した上で実行していく、って感じで今は考えてます。で、転化できなければ、ブレーキかかってしまうのだが、それは次に考えてみます。
 さて、出発点が、なんか「飲みたい」なら、話はまだ簡単だし、沢山の当為の果にではあっても、それを1つずつ欲求に転化して実現すれば(なんか飲めれば)それでハッピーエンドなんやが、欲求(したいこと)が、本来の動物としての欲望から遠く離れて、あるいは最初から人間だけに通用するような欲求だと、ことはかなり複雑になります。
 例えば、あの大学に入って、大好きな文学、特にあの作家の小説を研究してみたい、という欲求を持つ青年がいたとします。彼の主体は、この実体の欲求実現のために、受験勉強の計画を立てるのだが、沢山の当為の果の、今日の課題である問題集の30ページまで解かなければならないという当為を、彼は果たして当初の欲求からここまでたどり着いたエネルギーによってしたいことに転化しきれるのでしょうか。あるいは、沢山の当為をくぐり抜けてきた欲求のエネルギーよりも、他にある大きなエネルギーによって阻まれるということはないのでしょうか。例えば、今日、いつも応援しているサッカーチームの試合が、今正に始まろうとしているとき、「あの大学に入りたい」から始まって、そのためにはこうこうこうしなければならない、従ってあれあれするべき、そして、今日はこれこれの勉強しなければならない、という当為の連鎖をくぐり抜けて最初と比べて小さく削がれてしまったエネルギーは、今、好きなサッカーチームの試合がみたい、という大きなエネルギーに勝つことができるのか。
 主体は、ここで、選ばなくてはならない。自分にとって最も「正しい」選択は、何なのか。そのためにも、場合によっては「大学に行きたい」という欲求が、果たして欲求として成り立っているのかを検証しなければならない。つまり、大学行きたい、という欲求が成り立つ前に、なになにしたいから、そのために大学に行かなあかんという当為を根拠付ける先行する欲求があったはずで、それを実現するための当為として大学入学が選ばれ、先行する欲求が注がれることにより、大学行きたいという欲求に転化されたはず。このように、根本的に大学入学という目的(欲求の実現のための当為の根っこ)を見直す抜本的方向転換か、または、サッカーの試合を観た後に勉強の計画を修正する柔軟路線か、はたまた1つの脱線も認めない強硬論を採るのか、正に自由、十人十色、千差万別です。いずれにしても、ここで行われることは、主体と実体との対話なのです。
 このように、実体には様々な欲求(場合によっては相対立する矛盾した欲求)が渦巻いており、それを上手に捌いていくのが主体の腕の見せどころではないか、と私は思うのです。先の例で言えば、「俺は、何のために大学に行こうとしてるのか?」と自問自答しているとしたら、自分の実体が本当に欲しているものが何なのか、或いは対立する欲求があるならそれらをできるだけ実現させるために主体はどう整理し、指導していくべきなのか、が問われているということですよね。そして、上手に生きていくためには、自分の中の自分たちをよく知り、分析することが必要になってくる。その上で、自分を制御する力をどう獲得していくか、が、生きる難しさであり、また、生きる醍醐味でもあり、邪魔くさいところでもあるんやろなと私は想います。
 ただ、ここでひとつ気になるのは、否定的欲求と否定的当為をどう考えるか。「こうしたい」と「こうしたくない」は同じ欲求と考えていいんやろうか。また、「こうするべき」と「こうするべきでない(こうしてはならない)」は、同じ当為と考えていいんやろうか。また、話がぴょんと跳ぶけれど、自己実現(成りたい自分は現状の自分の否定、批判を前提に組み立てられる)という究極の欲求があるとして、その時に否定される現状の自分や、成りたくない人間(像)が、否定的当為(してはならないこと)として現れるんやろうか。
さらに、自分というひとりの人間の中で起こっていることが外に出たとき、どうなってしまうのか。つまり、欲求は、自分だけのものなのに、当為って、自分だけのものでないように見えるやんか。例えば、「こうこうこうしたい」 なら、「こうしなければならない」 っていう私の中だけでは自然な流れなのに、ほかの人にも通用するとは限らんのに、それが「正しさ」や「普通」というよそ行きの服きて外に出てしまうことってあるやろ。これって、結構、日常茶飯事で、よく見かけることやんな。
 これって、倫理? まあ、人格の構造ともども、先達の思想を尋ねるなどする中で、今後も追求してみたいと思ってます。今回は、ここまで。

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