生き方論的ななにか あと倫理とか 詩とかも 第1回 プロローグ

 若い頃から、生き方にこだわってきた。現実の人生の中で、いいことも悪いことも沢山あって、自分との付き合い方もそうだけど、私と関わってくれたいろんな人たちとの、求め合う事と、拒否しあう事、争いや拒絶、その果ての苦しみや悲しみなどなど、半世紀以上も生きてきたら、ホントにいろんなことがあって、いろんなことを考え、悩み、もがいてきた。こう言うと、いい事より、悪い事の方が多いみたいやけど、だから考えるんやろうな、生き方を。他にやり方はなかったの? あなたの求めているものは、こんなものではなかったはず、などなど。そして、その時々に、自分と自分の関わる世界を分析して、いろんな結論を出しては納得し、あるいは自分を責め、咎め、あるいは慰めて生きてきた。
 喉元をすぎれば考えなくなって、いろんな断片が記憶の海の中を漂い、あるものは深く沈み込み、あるものはふわふわとたゆたい、それらは時々想いもよらない出会い方をしてみせる。8×8=64というまるで実感の伴わない年齢となった今、改めて、そんな断片を拾い集めて整理したいと思うようになった。
 例えば、思春期のはじめの頃、正しい生き方をしたい、と想っていた。あぁ、懐かしい。そして「正しい生き方」とはどんな生き方か、頑なに求め、汲々としていたな。
 しかし、今は、こう想ってる。誰にとっても正しいことは、あるのか。ほんとに、そんなものあるんやろか。それに、それがあったとして、人間にとっての正しさは、人間だけのものやんか。人間を世界の中心に据えて、人間にとって正しいから、世界にとって正しい、なんて、思えばかなり無理のある主張やろ。まして、日本人にとって正しくても、ロシヤ人にとって正しいとはいえないし、男性には男性の、女性には女性の正しさがあるだろう。もっと言えば、私にとって正しいことは、あなたにとって正しいと言えるのか、とか、あの時の私にとって正しかったことが、今の私にとっても、正しいと、誰が言えるのか。そして、その逆も同じですよね。じゃあさ、私達の言う正しさって、何なんだろう。いや、ちょっと待て。この論議の果ては、抽象が過ぎて、生きた現実と繫がってないから、結局は誰もが納得する正しさなんてないという結論になりそう。
 そこで、生き方から一度離れて、「正しさ」を考えてみたら、どうでしょう。あるやんか、1+1=2っていう正しさが。あと、人権と民主主義という正しさ(の基準)も、あるよね。現代の最先端を生きる私たちにとって、求められている正しさは、できる限りの多様性の尊重と、持続可能な社会や環境を作り上げること、などなど。でもさ、元に戻ると、私の(あなたの)生き方と、そんな正しさと、どう繋がってるのか、っていう話やんな。いろんな問題や疑問が、私や私の中の私たち(あなたやあなたたち)の間で渦巻いて、私はワクワクするので、ひとつひとつ、想いつくまま紐解いてみたいと想ってます。(ここまでで、うんざりしているあなたにはごめんなさいです)
 あと、生き方に関して言えば、若い頃(20代の頃)に考えていた人格の構造と価値の座標軸について、長年降り積もった埃を払って出してみようかな。すごく恥ずかしいけど、それは、自分がそれを結論にしていたから。ワクワクするのは、それが、考える種子となって、水をやったら、育っていくかもしれないから。

 本当のところ、目指すのは生き方の科学なんやけど、それは手の届かない遠い遠い理想郷のようなもの。私には、系統だって理論を構築することはできそうにない。なので、想いつくまま、時には、生き方すら離れて言葉を紡いでいきます。ごめんなさい。
 さて、これから展開される、こんなんやあんなんが、生き方に悩んでいる誰かさんや、生き方とか倫理について誰かと話し合いたいと想っているあなたの心に、ほんの少しでも触れることがてきたなら、どんなにすばらしいことでしょう。そんな、宝くじが当たるのを夢見るような気持ちを抱いて、さあ、はじまり、はじまり。

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