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生き方論の地平 第2回「正しさ」の果にあるもの

 私の正しさ、あなたの正しさ、私達の正しさ、そんなたくさんの正しさの、その果には何があるのか?

 いや、確かに、それぞれの正しさがあって、今どきは、正しさを押しつけられる事に、かなり敏感に反応する時代なんやけど、なんかどうなんやろっていう違和感(あまり使いたくない言葉なんやけどな)が、私の中で膨らんでいくねんけど…

 いろんな事を押し付けあった昭和(戦前戦後を問わず)っていう時代に対する反動なんやろか。それとも、多様性を最大限に尊重し、それを、一律に合唱している世界の風潮を先取りする忖度なんか?

 一方で、個人に目を向ければ、仮に、「正しさ」が、人それぞれのなかに独立し、或いは孤立してあるものだとしたら、その正しさを理解し、育み、或いは守る事ができるのは、あなただけ、ということになる。そして、外界の正しさからはあくまで独立し、鎖国的孤高を体現するあなただけの「正しさ」を守ることは、逆に、「自分だけの正しさ」を「ヒト共通の正しさ」と同一視する侵略者によって、迫害の対象とされてしまうという悲しい結末を、結果的に自ら招き入れてしまうのではないか?

 某ロシヤの某大統領は言うに及ばず、目をやられても目だけに留めることができない、某中近東に大戦後、割込んできた某国の某首相とかも、そんな(単に弱い者いじめやんかっていう)構図が私には視えるし、そんな悲劇が、身近な身の回りにもはびこる、いじめや虐待、各種ハラスメントの裏側にも見え隠れするんやけど、どうなんやろか。

 いや、私は、単純に自分(だけ)の正しさを持つことがいけないなんていう昭和な攻撃をしようとは思ってないねんで。ただ、正しさを、自分だけにしか解らないものと考えた途端、実は、自分以外の正しさに宣戦布告してるようなもんやっていう風に視えるねんな。つまり、防御してるつもりが、侵略者に口実を与えてしまっているというか… ホンマにどうなんやろね。

 さて、では、その正しさは、何のための正しさなのか? (ここまでの「正しさ」は、「価値観」という言葉に置き換えてもらってもいいっす。てか、読み換えてみて下さい。)

 で、ここからは、唐突ですが、私の心の中に横たわる広くて深い記憶の海(いやぁ、半世紀以上生きてると広くも深くもなるねんな)に潜って、私の価値観形成に関わる出来事の中で、気になる光を放つものを探ってみたいと思います。まず、見つけたのは、こんな記憶でした…

 昔、娘と、山の中の大きな保護猫施設に、猫と触れたい一心でよく出かけた。18畳位の大きなログハウス風の部屋に、大勢の猫たちがたむろしていて、それはもう、猫好きにとっては天国のような場所なんです。何がいいかって、商業的猫カフェと違って、単位面積あたりの猫数が圧倒的に多いので、こちらが追いかけなくても、じっとしてるだけで、ヒト(そのものや、ヒトの膝や腕やの温もり)が好きな猫が、寄ってきてくれんねんな。ただ、欠点としては、とにかく臭い。そして、体調が悪かったり、少し風邪気味の猫も多くて、猫たちの鼻水や目ヤニを拭き取るために、部屋に入る時には、必ずティッシュとゴミ捨て用のビニール袋なんかを持参しなければならなかった。
 さて、前置きが長くなってしまったけど、ある日、いつものようにその保護猫施設を訪問していたときのこと。娘の方に、体を不自然にフラフラ揺らして近寄って来る猫(多分、交通事故かなにかで軽い機能障害が残ったのだろう)がいました。その時、娘は、想わず声を出して笑って「可愛い!」と言ったあと、ふと、私の方を振り返り、「バカにしてるんちゃうで、ホンマに可愛いと想ってんねんで」的な事を言ったのです。私は、分かってるよ、と返事したと思う。
 このことで少し解説。この娘の親である私も、ご多分に漏れずっていうか、若い頃、素晴らしいと感じたとき、多分自分が思う以上に大きな声で笑う癖があって、友人にはよく誤解されることがあった。「なに笑ってんねん!」て怒られて、アタフタすることが何回かあって、以降、同じ笑うにしても、人を馬鹿にした嘲笑もあるのだということを知りました。このときの娘も、私と同じような事がふと頭をよぎったのでしょう。そういう訳で、彼女の、深い愛情の表出としての、その笑いは、私には容易に共感できたのでした。

 もうひとつ見つけた真新しいこんな記憶… 私は、女子サッカーの(サポーターって自称するのは小っ恥ずかしい程度の)ファンなんですけど、日本のトップリーグであるWEリーグのノジマステラ神奈川相模原というチームに所属する笹井一愛(ささいちなり)という選手に注目している。彼女は昨年(2023年)、高校在学中の18才でありながら、トップチームに昇格し、今シーズン前半(WEリーグは秋春制)はツーゴールを上げるなど、かなり実力のある若手選手なんやけど、実は、先天性難聴という持病を持っているんです。だから、補聴器をつけてプレーしている。最初は、へー、そうなんや、っていう軽い感じやってんけど、何節目やったか、彼女の試合後のヒロインインタビューを見て、すっかり好きになってしまったのです。耳の不自由なヒトに特徴的なたどたどしい喋り方で、少し恥ずかしそうに、しかし、的確な自己表現をする彼女にすっかり魅了されてしまいました。 猫と一緒にしたら、彼女に失礼なんかな? しかし、ホンマに「可愛い! 頑張って! 応援させてもらいます!」って心で叫んだ。

 猫も、笹井選手も、何でこんなに心を持っていかれるんやろう(何度もいうけど、猫と一緒にしてごめんやで)。障害というハンデ(ていうかその子の個性)が私には(そして猫に限ってやけど娘も)、なぜこんなにも大きな意味を持って心に響くのか?
 それは、一言で言えば、「弱さ」なのではないか、と私は想っている。

 さて、記憶の海から上がってみて、考えたこと。私は私に対する問いの中で、「あんた一体、誰(何)の味方なん?」と問われた時の答えとして、いつの頃からか、こう想ってきた。
 私の中で、突き詰めて、煮詰めた末に残った答え。それは、弱い者の味方であること、そして、もうひとつ、正しい者の味方であること。
 弱い者の味方、とは、社会主義と大いにダブると思っている。ただ、宮崎駿監督が「僕はね、空想的社会主義者なんだよ」と言った、それと近いニュアンスです。そして、なにより、弱い者の味方と言いながら、具体的に何もそのための行動、活動は、自慢じゃないけどほとんどしてない。ごめんやけど。
 そういう意味では、高崎市辺りで、生活保護を必要とするような生活弱者のために、長年活動し続けている大学時代の先輩とか、あるいは、某政府系機関の労働組合の委員長まで上り詰めた(本人は全くその気はない)のに、飽くまで労働弱者の為に何ができるかをふんわり考え続けている、およそ活動家らしくない(某夜間学習機関で知り合った)友人と比べると、我ながら、「弱者の味方? で、あんた何したの? 何してるの?」と自問してしまうんやけどね。スンマセン。

 で、正しい者の味方、の方なんやけど。それは、言い換えれば、科学的であると言う風に言えるのかな。もっと砕いて言えば、事実をもとにした判断に徹するということ。あるいは、誰の目にも、明らかやんか的な見方?  でも、そこには、前シーズンでさんざこねくり回した末の、難しい矛盾に満ちた(ように思える)沼が横たわっている。相対主義や不可知論VS絶対主義や独善論、あるいは個人と共同体との軋轢や、個人の中までも侵食する私と私達との葛藤、みたいな沼?
 ただ、今は、「正しさ」の意味を問い続ける限り、何が正しいのか結局のところ、ぐるぐる回って定まらんやんか!的なループからは、少しは前進しつつあると想うんですが… 
 例えば、数学とか、自然科学とか、社会科学とか、そんなありきたりな切り分け方とは違う、物と、生命と、ヒトとの織りなす壮大な物語の中に、本当に大切な「正しさ」があるような気がしています。それはそれで、ドキドキするような、ワクワクするような話なんやけど、だけどね。今は、その前に、それは、なんのため? をはっきりさせないと、と想っています。

 ぐるぐる回ってやっとこさ、もとの話に戻るんやけど、正しさっていうけど、それは、何のための正しさなのか、が、一番の問題なんだと想う。そういう意味では、弱い者(自分自身も含めたヒトや生命や地球)を守れない「正しさ」なんかいらないし、ましてや、弱い者(自分自身、ヒト、生命や地球)を叩くような「正しさ」を、もはや正しいと言ってほしくない、と私は想う。

 あるnoter(noteに投稿している人の事をこう呼ぶそうな)の「困難スライドリボルビング精神」(以下、コンスラリボさんと呼ぶ)という方が言ってた目からウロコの言葉をここに引用させてもらいます。

…私はほんとうに世界が嫌いだが、「私たち」のことはふんわりと信じている。
「私はあいつを殴るべき」と感じても、主語を「私たちは」に変えると、あいつを殴るべきではない、と正反対かつ真っ当な結論を導いてくれる。
私は死ぬべきかと考えるときも、主語を「私たち」に変えてみる。もちろん、私たちは死ぬべきではない。

 ここに、見事に、そして的確に、私の正しさ、あなたの正しさ、そして私たちの正しさ問題の答えが凝縮されていると私は想う。
 この「私たち」が、ヒトを意味するとするなら、「私たち」は、いまや地球をどうこうしてしまうほどの「力」だ。だけど、その力は「私(を含むヒト、命、地球)たち」を救う為にあるべきであって、その力が、弱い私やヒト、命や地球を叩くのであれば、それは正しいとは言えない。そう、その力は「悪」でしかない。そういう意味では、コンスラリボさんの中の「私たち」は死んでしまいたいと想う弱いコンスラリボさんをなんとか救おうとしているのだから(死ぬべきではない、は、生きろや、という叱責ではなく、生きていて、という願いですよね、念のため)、コンスラリボさんの中の、彼女が信じる「私たち」は、弱い者の味方であるのだと私は想う。

 だから、「正しさ」の中身なんかなんでもいいんじゃないっすか? 私の正しさであれ、あなたの正しさであれ、私たちの正しさであれ、誰の「正しさ」であれ、私たちは、その「正しさ」が、なんのために生まれ、なんのために言われ、なんのために叫ばれたのか、を、いつも、注意深く、慎重に、時には騙されないように疑いながら、吟味する必要があるのだと、私は今、想っています。

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