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設定温度

ウゥー……

窓の外から微かに犬が唸る声が聞こえる。怒っているというよりなにかに怯えてるような声だ。


どこか遠くの町で観測史上最高気温を観測した今日。町には人影がほとんどなく、かわりに道路の向こうで陽炎が揺れている。

さっき唸っていた犬ももうクーラーの効いた部屋に帰ったのだろうか。さっきの犬のかわりにクーラーの室外機が熱い息を吐きながら唸っている。


今日は甲子園も休養日だから朝からテレビは消えっぱなし。


「暑くないの?」

ダイニングテーブルでカーディガンを羽織って、小説を読んでいる彼女に話しかける。


「……」

「暑くないか……」

僕はTシャツの袖を肩までまくって、裾をパタパタと扇いで服の中の熱を逃がす。

リビングのテーブルの上に置いてあるエアコンのリモコンに目をやる。


(ねぇ。エアコンの温度、下げてもいい?)


そう言おうと口を開きかけてやめた。


毎年、夏が来るとこの葛藤がやってくる。

少し暑がりな僕と少し寒がりな彼女がひとつ屋根の下に暮らすには、夏という季節はあまりにも厳しかった。


小説を読む彼女の涼し気な横顔を見て不思議に思う。彼女は暑さを無視するかのように汗もかかずにいる。

彼女だけが夏ではないどこかの季節にいるのか、はたまた僕だけが夏に取り残されたのか。

とにかく、額にかいた汗をよれたTシャツの裾で拭ってから立ち上がってカーテンの隙間から外を覗いた。

どこまでも突き抜けるような群青色に綿を積み上げたような入道雲とその上を真一文字に飛行機雲が走っていく。


「はぁ」

そのあまりの鮮やかさに思わずため息をついてしまった。

この暑さを夏のせいにでもしてやろうかと思ったが、とてもそんな気分にはなれなかった。

どう考えても僕が我慢しているから暑いだけだった。


「秋はまだ遠いかな」

青い空は僕を嘲笑うように見下ろすだけだった。



それからしばらく時間が経った。

空はまだ少し明るいが、さっきまで静かにしていた蝉が一斉に鳴き始めた。

しかし、その騒がしさも無視するかのように彼女はさっきから本も目も閉じている。


「……パパ」

娘がお気に入りのぬいぐるみを引きずりながら、お昼寝から目を覚ました。


「どうした?」

「ママは?」

「……ママは寝てるよ」

「パパ、暑くないの?」

「……暑くないよ」

「でも、お目目からも汗かいてるよ?」

「うん、大丈夫」

僕は目元を拭って、娘に笑いかけた。


僕はぬいぐるみで遊び始めた娘を横目に立ち上がって気持ちよさそうに寝ている彼女の元に歩いていった。

彼女が呼んでいた小説の題名を見た。


『ツナグ/辻村深月』


そう書かれた表紙を見て、涙が止まらなくなった。


「パパ、大丈夫?どこか痛いの?」

「ううん、大丈夫だよ……大丈夫……」


人を愛すると人はやさしくなって、限界以上にその大切な人のために我慢してしまうらしい。

暑がりな僕と寒がりな彼女が一緒に住むからそこには愛があった。でも、そんな気遣いももういらない。

それでも夏になると寒がりでいつもカーディガンを羽織っていた彼女を思い出していつになっても下げられない、



設定温度。


〈完〉



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