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君の名は希望


部活動に勤しむ学校の生徒たちの掛け声がグラウンドに響いている。

体育館からはシューズと床が擦れる音やバスケットボールが床を打つ音が聞こえる。


僕はそんな音が聞こえてくる教室でひとり、小説を読んでいた。


こんなことしてるからクラスメイトからは『透明人間』なんて呼ばれるんだろう。

椎名林檎の描く透明人間みたいな綺麗なものじゃない。きっと誰からも必要とされず、見られもしない。そんな存在。


湿った重い風がカーテンを膨らませて、僕の持っている本のページまでめくろうとした。僕は窓の外に目をやった。


空は厚い雲に覆われていて気づかなかったが、さっきよりも少しばかり暗くなり始めている。


「……帰ろ」


誰に言うでもなく呟いて、閉じた小説をカバンにしまって立ち上がった。


昇降口を出て、中庭を抜けて裏門の駐輪場まで歩いた。駐輪場に着くと自分の自転車を探して、カバンを自転車のカゴに入れた。

すると、こっちに向かってテニスボールが転がってきた。ボールは勢いを失ってひとつ向こうの柱の下で止まった。

僕が顔を上げると1人の女の子がこっちに走ってきていたので、僕はスタンドを蹴りあげて自転車に跨った。


「ねぇ」


まさか僕だとは思わず、ペダルに置いた足に力を込めた。


「ねえってば。聞こえてるでしょ」


おい、だれか呼ばれてるぞ、とばかりにあたりを見回した。


「君しかいないじゃん」

そこでやっと僕は彼女の方を振り向いた。彼女はさっき僕が見た位置と同じところにいた。


「ボール、こっちに投げてよ」

「……自分で取れば?」

「君に取って欲しいの」

僕は言い返さずにただじっと彼女を見つめた。彼女も負けじとこちらを見つめ返した。もし本当に僕が透明人間ならそのうち見えなくなると思った。


しかし、たかがテニスボールひとつにこれ以上の押し問答は無駄なので僕はまたスタンドを立ててボールを取りに行った。


「はい」

僕が投げたテニスボールは放物線を描いてガットに跳ね返って彼女の手に収まった。


「ありがと、真琴くん?」

そう言って彼女は僕に背を向けて走り去っていった。


まさか名前を呼ばれるなんて思ってもいなかった。いや、知っているなんて思っていなかった。

もちろんただのクラスメイトなんだから不思議なことではないが、なにしろ僕は『透明人間』だ。


空の厚い雲が少し裂けて、隙間から日差しがスポットライトのように僕を照らした。

まるで舞台に立つ主人公のように僕の足元には濃い影が伸びていた。


「影のある透明人間なんていないな」


僕はそう呟いて、自転車に戻った。その足取りは軽かった。




その日からだろうか。放課後の教室で本を読む傍ら、テニスコートの彼女を見下ろすようになったのは。


学校が楽しいと思ったことはなかった。人と会うことが幸せだと思ったことはなかった。

だけど今は違った。放課後のこの時間だけは少し楽しみだった。帰りに駐輪場で彼女に「また明日」と言うのが楽しみだった。


するとどうだろう。今まで、独りの時間は別に苦痛じゃなかった。むしろ、心地よかった。

だけど今は独りの時間はなにか物足りなくて寂しくて切なくて。

その正体は知っているつもりだった。僕の知らないことは全部、本が教えてくれたから。『この感情は愛だ』と。

ただ、僕がこの感情を持ち合わせるなんて、こんなに人が恋しくなるなんて知らなかった。


そんなことを考えていると外は雨が降り出した。

どんどん勢いを増す雨粒から逃げ惑うようにテニスコートの生徒たちは慌ただしく片付けを始めた。

僕は走り回る生徒の中に彼女を見つけられなかった。



10分ほどしたら雨が少し落ち着いた。またさっきみたいに降り出す前に帰ろうと思い、教室を出た。


今日は雨だと知っていたので自転車じゃなくて駅まで歩きだ。裏門に続く中庭は雨で地面がぬかるんでいた。

中庭を抜けたところで足を止めて振り返った。

そこには僕がそこを歩いた、1人分の足跡が残っていた。それは僕がそこにいた何よりの証だった。


「あ!ちょうどよかった!」


傘の向こう、雨の音に紛れて彼女の声がした。傘を少しあげると髪を濡らした彼女が駐輪場の屋根の下で手を振っていた。


「なにしてんの?」

「なにって。雨宿り?傘忘れたから」

「タオルとかないの?」

「あるけど、汗拭いたから」

「まだ濡れてるのに……ほら」

僕はカバンから駅で使おうと思っていたタオルを出して、彼女に渡した。


「いいの?ありがとう」

「帰りは電車?」

「うん」

「じゃあ、その……」


『傘、一緒に入る?』その言葉が出なかった。今まで人付き合いを拒んできた自分を初めて恨んだ。

そんな僕を見て彼女が小さくため息をついた気がした。


「……傘、入れてくれる?」

「え、あ、うん。いいよ」


彼女は僕の右側の空間に入った。


「帰ろ?」


人が近くにいることをあんなに拒否していたのに、彼女がそばに立ってもなぜか居心地が良かった。


裏門まで歩いて少し後ろを振り返った。アスファルトの上には僕と彼女の2人分の足跡が残っていた。



駅に着いて、屋根の下に入って傘を閉じた。


「ありがとうね。あ、タオルは明日返すから」

「あ、うん」

「じゃあ、またね」


彼女は僕に微笑みかけて改札に向かって歩き出した。

その背中を見て僕はなんだか嬉しくなった。もし君が振り向かなくてもその微笑みを僕は忘れないだろう。


「また、明日」


彼女には聞こえないだろうが、僕は思わずそう呟いた。

また明日、彼女に会えるように。



小説の中の誰かが言っていた。『未来とはいつだって希望だ。希望とは明日の空だ』と。意味がわからなかった。

ただ今なら少しわかる気がする。僕にとって




君の名は希望。



<完>


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