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【老害?】価値を出せなくなったらサヨウナラ

自身の仕事の引き際について、「仕事を続けたい」か否か、という観点ではなく、価値を提供できなくなったら「用無し」という話

今日は自身で肝に銘じたい話である。

弊社の顧問税理士と雑談をしていた際のこと、同世代ではあるが年齢はわたしより少し上の先生から自身の引き際について話を聞いた。



ここ最近、銀行の方からとある会社の決算書について、訂正を行う作業を頼まれたそうだ。拝見すると、その決算書は誤りの数字が多く、とても決算書として銀行で処理できるような内容ではなかったそうだ。

聞くところによると、作成したのは70代の高齢税理士。自身が作成したお粗末な決算書の内容について、自分の落ち度すら理解できていないようだったのだ。



そのとき、顧問税理士の先生は自身の引き際のひとつの理由として、仕事において代価を頂戴する価値を提供できなくなったときに自分に引導を自ら渡すと決めたそうだ。

その話を聞いて、健康寿命が延びた昨今の日本社会でこのような事例は多々あるだろうし、これから溢れかえるのではなかろうかという一抹の不安を抱いたのだ。



わたしだって、定年の無い仕事である。元気であればできるだけ仕事を続けたいとは考えていたが、それはあくまでの個人の理想。自分がした仕事に対して顧客が価値を感じなかったり、お金を払いたくないという態度になるならば、それはもはや仕事としては成立していないこと意味する。

残念なことにその高齢税理士やその他の高齢で役割りを全うしていると思っている方々に、「あなたは役に立てていませんよ」と教えてくれるような優しい人などいない。

自分でその線引きをしなくてはならないと思うのだが、わたしも含めてどこまでを提供できている価値とするか判断するのはなかなか難しい問題だと思ったのだ。



巷には「老害」などという不名誉な呼称まであるくらいなのだから、おそらく当事者である高齢者と、世間とのギャップはずいぶん前から認識されていたのだろう。

「自分だけは老害になんてならない」と意識していても、そのジャッジは意外とできないものなのではないだろうか。



経験がものをいう場面も確かにあるが、それ以上に自分の衰えからくる判断力や認知力の低下、身体的なものも含めて適切に価値を提供できる年齢は65歳程度が限界のような気もするのだ。

とはいえ昨今の60代はまだまだ若いし、なんだったら70代だって役割りを選べば働ける人も多い。それならば受け入れる社会がもう少し寛容になるべきなのだろうか、これから突き進む超高齢化社会への課題は多い。



そんな話もあり、ぼんやりと自分の引き際について考えたが、「価値を提供できなくなったら引退」という線引きは個人的に賛成である。

余生は何をして過ごすべきか、それも人生の課題として考えておいた方がよさそうかもである。

いくつになっても自身を客観視する視点を持つことで社会の居場所を把握する


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