『本を読む』という冒険
本屋という空間をこよなく愛している。
小学生の中学年ぐらいまではマンガぐらいしか読んだことがなかった。
時間があれば友達の家に行ってドュエマかスマブラをするか、野球かサッカーの練習をするか近所の草っ原を走り回っているようなどの地域を見渡しても腐るほどいるスポーツ少年そのままだった。
ちょうど同じぐらいの時期から学校という空間に居心地の悪さを感じるようになった。そして『自分』というものに価値を感じられなくなってしまった。
相手の気持ちが分からない。何故か知らないが相手を怒らせ、喧嘩へと発展してしまう。
あの頃の自分ははたからみたらただの問題児だったことだろう。そして薄々ではあるがその状況を理解し始め、教室という空間であの頃から自分に付き纏う正体である『劣等感』という固まりと腐れ縁状態のまま早10年以上が経過する。
『どうやったら人の気持ちが分かる様になるかな?』
高学年の頃、何があったのかは忘れてしまったが、盛大に傷ついた自分は泣きじゃくりながら母に助けを求めた記憶がある。母はこう言った。
『わからないなら本を読めばいいのよ。そうしたらちょっとずつ相手の気持ちが分かるようになるから』
そんな時に頭の良かった同じマンションの友達から一冊の本を借りた。
題名はあさのあつこの『バッテリー』
衝撃が全身を駆け巡った。ただ目で文字を羅列して追っているだけだというのにこんなにも胸を打たれ、心の奥底があったまったかの様な感触を感じ得たのだろうか。
当時はそんな風には思えなかったが、あの時の感情を言語化するとこんな風に当てはまるのだと思う。
それから自分は色んな本を手当たり次第読むようになった。中学から電車通学だったのであの頃の電車内での過ごしの時間はほとんど読書に充てていた。
家の近所にブックオフがあったので部活終わりによく立ち寄り、百円コーナーを物色しては、弱冠10数年で培った経験と感性を研ぎ澄ませ、100円という、今でいう自分の『10万のフェンダーのエレキ買お』と言った大分スペクタクルな人生を満喫していたものだ。(その頃は読解力なんぞ皆無だったので最終的にはマンガコーナーに行き着いていたが)
中学生の頃もあまり馴染めず、徐々に逃げ込むかのように図書室に逃げ込む様になっていた。あの時は将来が不安で不安でたまらなく、今にも押し潰されてしまう様な勢いだった。
だが、それでも今を生きている。
俺は読書に助けられ、素晴らしい文章の節々に救われてきた。そんなこんなな人生で自分には『文章を書く』という力が人並みに身に付いてきたのだろう。
これからも何かが有れば本屋に行こう。そして色んな本に触れ、素敵な言葉に出会う為に今日も生きてる。そして生きていく。
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