知識と知恵
最近、強く感じる疑問がある。
知識を増やすことは、素晴らしい話なのか?
価値判断の問題だから、人それぞれの見方があろう。
私は、違うと思うようになった。
少々理由を説明する。
世の中には、トリビアリズム的な態度、つまり些末なというかどうでもいい事柄にこだわり、それに関する知識がたくさんある人がいる。
そんな知識量の多さを根拠に、自分がまるで全知全能の預言者みたいにふるまう人を見ると、私は「何、勘違いしているの?」と言いたくなる。
例えば、ロシアの軍事という私にとってはどうでもいいことに異常に詳しい小泉悠という怪しい目つきの御仁が、ロシア悪玉論の旗振り役を現在日本メディアで喜々として演じている。
上の記事で、プチャの虐殺はロシアによるもの、と小泉は指摘する。
しかし、否定見解も多くだされている。
なぜ、彼は断定調で言い切ってしまったのだろう。
反論を期待したい。
さて、小泉のような御仁をオタクと呼んでいる。
軍事オタクがどうして世界情勢一般に通暁しているかのように日本メディアでペラペラ喋るのだろう。
不思議だ。
黙々とロシア軍事というオタク知識の習得を大学の中で彼はやっていればよい。
それが彼にとってふさわしい生き方だと思う。
関連するが、定義にこだわる人もやたらといる。
例えば、抽象的な言葉を定義づけようとして、小難しい英単語を交えて説明する大学教授や評論家。
討論番組で、自分が蓄えてきた知識を繰り出して、俺は森羅万象に通じているかのように思いあがっている姿を、想像してもらいたい。
私はこういう人々を定義病患者と呼んでいる。
定義に厳密さを求めることは、学問の世界では必要だ。
しかし、定義に絶対的な基準は本当にあるのだろうか。
自然科学の一分野である医学で、高血圧の定義が最近変更されたことでその思いを強くした。
定義病患者は、トリビアリズムに陥ったオタクの姿とも言える。
ここで、ちょっと横道にそれる。
小利口という言葉がある。
目先のことにはあざとく気が付いて要領よく立ち回る器用さはあるが、善悪の判断力を欠いた、こざかしい人のことを言う。
別の言葉で言うと、木だけを見て、森をみない、大局観がない人だ。
私から言わせれば、小泉をはじめとする今の日本の研究者たちは小利口だ。
小利口は、知識はあるが、知恵はない。
賢明でもない。
知識量の多さを根拠に彼らはのぼせているだけだ。
知恵を磨くことを、多くの日本人は忘れていると言える。
最後に、もう一つ指摘する。
今の小利口たちは、自分の間違った見解を認め、謝罪することができないという特徴を持っている。
謝ったら死ぬ病にかかっている。
小泉や以前紹介した西浦博や山中伸弥は、自分が日本メディアで披瀝した間違った見解やウソを認め、謝罪する意志はたぶんないだろう。
それどころか、私は○○の専門家なので謝罪という言葉の定義についてはわかりかねますと開き直る、あるいは謝罪すればいいというものじゃないと逆ギレする可能性もある。
人間として大切な何かが欠落した恐ろしい連中だ。
そして、小利口たちを、知の巨人とかインテリと持ち上げ、思い上がらせている日本メディアの罪深さは、いくら強調してもし過ぎるということはない。
また、いままでメディアや小利口の言うことを盲信して、その都度痛い思いをしたはずなのに、それでもなお猛暑日にもかかわらずマスクをつけ、みんなのためにという騙し文句でワクチンを打ってしまう日本人たち。
あまりに異常な日本の初夏である。
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