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障害者観から見た日本人

画家山下清の作品を鑑賞して、ある人物がこんなことを言っている。

成る程、清君の画は美しいが、何にも語り掛けてくるものがない、いくら見ていても、美しさの中から人間が現れて来ない。尋常な生活感情を欠いている人の表現は、人間的な意味を全く欠いている人とともに感じ、人と共に考える能力のない狂人の画は、決して生命感を現わしていない。現れているのは、単なる運動感である。その色彩は、眼に訴えるが、心まではとゞかない。狂人にも鋭敏な色感がある事は、例えば狂人にも鋭敏な性欲があるという以上の事を意味しやしない。そういう美しさを画家は美しいとは言わないのである。詩人が言葉の意味と言葉のリズムを合一させようと努める様に、画家は色や形に意味を盛ろうと努める。その難しさの為に、止むなく美しくない画面を作り出して了う事もあるのだ。美は、個体的な感覚を通じて普遍的な精神に出会おうとする意志の創るものだ。倫理的でない美はない。

単なる思い込みによる一方的な決めつけが目立ち、不快極まりなかった。
特にひどいと感じたところは、
「狂人にも鋭敏な色感がある事は、例えば狂人にも鋭敏な性欲があるという以上の事を意味しやしない」である。
この人物は、狂人にも鋭敏な色感があるというひどい偏見を説明するため、例えとして狂人にも鋭敏な性欲あるのと同じ程度のことだとしている。
ここでふと疑問に思った。
どうして、鋭敏な性欲という強烈なネガティブイメージにつながる言葉を、例えとしてこの人物はわざわざ選んだのか?
恐らく、山下清の画を、どうしても認めることができなかったからだ。
居丈高な決めつけで否定しようとしたのは、この人物の下らない見栄やプライドが許さなかったのだろう。
また、こういう例えの仕方は、自分にとって気にくわない人物を貶める現在の印象操作の手法と同じ卑怯で下劣なやり口で、吐き気を覚えた。
参考までに、山下は言語と知能に軽い障害を持っていた程度だったという。

ここで、2016年7月相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」で発生した殺傷事件の犯人植松聖の障害者観を紹介しよう。
植松は、自分がどのような人間か理解できず、他人とコミュニケーション不能である障害者は、存在していても社会に迷惑なので、殺してもいい、と考えていた。
山下清を貶めようと印象操作を企てた先ほどの人物も、植松と同じ障害者観の持ち主だった。
引用文の中で、
「尋常な生活感情を欠いている人の表現は、人間的な意味を全く欠いている」、
「人とともに感じ、人と共に考える能力のない狂人の画」
とこの人物は、山下清の画を切り捨てている。
どう読んでみても、山下を人間扱いしていない。
他に解釈の余地はない。
麻生太郎や石原慎太郎の障害者侮蔑発言をはるかに超越する暴言だ。

2つの例からわかるように、日本人は障害者を人間扱いせず、いつも冷酷だった。
偽善に満ちた24時間テレビが、40年も放送され続け、非常時である今年でさえ継続されているのを見て、その思いを強くした。

最後に、山下清の画を罵倒した人物とは、小林秀雄である。
昭和時代の作家や知識人たちは、飲み屋の酔っ払いの言いがかりと変わらぬ小林の評論に恐れをなし、平伏していた者が多い。
そして、こういう差別主義者をかつては評論の神様扱いしていた。
今を生きるZ世代の皆さんは、このことをどのように感じるのだろうか?

追記 2022/10/22
れいわ新選組の参議院議員である天畠大輔氏が、国会の予算委員会で初めての質疑を行った。
彼は、14歳の時、医療ミスで重度の障害を負い、他者とのコミュニケーションに大きなハンディキャップを抱えながら生きてきた。天畠氏のこれまでの絶望や苦悩を鑑みると、画期的な出来事だった。

小林秀雄の識見のなさを改めて確信した。
彼については、フランス文学研究の泰斗である渡辺一夫を気違い扱いした狂気の逸話もあった。小林は、敵対する人間を人民の敵、反革命分子とレッテルを貼って迫害した共産主義者には嫌悪を感じていたはずだ。だが、自分の直感・主観の枠組みの外側にある対象に出会うと、彼は狂人、気違いと口を極めて罵った。凄まじい独善ぶりでは小林と共産主義者は全く同じである。
ところで、今でも小林を信奉している方は多い。自称保守のみなさんだ。小林の障害者差別を、自称保守の人たちはどのように考えているのだろう。たぶん、「現在の価値観で過去を断罪する愚かさ」、「人間とは差別をする動物」、「弱者という名を借りた強者による正義の押し付けに警鐘を鳴らす」、「ポリティカルコレクトネスの濫用を戒める」といった訳知り顔の評論を書いて、小林の差別体質を正当化するだろう。


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