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4. さよなら宗谷

1998年2月に亡くなった祖父は、第二次世界大戦後期の1942-1943年頃に召集され、激戦地のフィリピンに送り込まれた。

私はおじいちゃん子・おばあちゃん子だったので、夕飯が終わると祖父に背負われ寝床に向かうというのがルーティンだった。
祖父の丸くて禿げた頭の左側は歪に凸凹していて、それは戦地で負った傷の手術痕だと祖母から聞かされていた。

祖父は、夜中にうなされて叫び声をあげることが度々あった。私はその声の大きさにびっくりして目を覚ます。

普段は戦争について何も語らない祖父だが、晩酌の金杯が進むとフィリピンの戦地の話や軍隊の話が始まる。一度始まると長いので、内心(げっ始まったよ…長くなるな…)と思っていた。詳しい内容は覚えていないが、理不尽な上官とかジャングルに潜んでいた話をよくしていたような記憶がある。

酔った祖父は、政治批判もよくしていた。毎週日曜日はNHKの日曜討論を必ず見ていた。
戦争や平和について、何か教訓めいた話をすることはなかった。
基本仏頂面だが、私達には本物をみせてくれる、本物の味を食べさせようとする、物事の本質を重んじる人だった。

そんな祖父だから、イベントにお出かけなんてことは好まない。
しかし一度だけ、家族で出かけたイベントがあった。

「宗谷」という船の「サヨナラ航海」で、地元の港に寄港した時のこと。

この宗谷という船は、1936年に民間貨物船として建造され、戦中は海軍の特務艦、戦後は引揚船、その後海上保安庁に籍を移し、巡視船、南極観測船(南極物語のタロとジロのエピソードにも関わっている)として活躍した船だ。激動の昭和史とともに生きた船。
今はお台場の船の科学館で船としての余生を送っている。

【船の科学館】

https://funenokagakukan.or.jp/



1978年。
北東北の港に1万7000人が押し寄せた。
ま、5/17000はウチの家族だったわけで。
余りの混雑に船内見学を諦め、みんなで岸壁から接岸した宗谷を眺めていた。「宗谷」の文字と春日八郎という歌手の「さよなら宗谷」という歌が流れていた。

当時の祖父は還暦を少し過ぎた年齢。
宗谷には思い入れがあるように見えた。
当時は、召集令状一枚で戦争に駆り出された人達の年齢層が50代後半から60代だったので、県内はもとより近隣県からも宗谷に会いに来た人がいたのだと思う。

宗谷は幾多の戦火を潜り抜けたことから「奇跡の船」と呼ばれ、終戦後は引揚船として多くの日本人を運び、戦後は巡視船として、海上での事故や急病に駆けつけ、さらには南極観測船として氷を砕いて進み続けた。

祖父の世代(1917年大正7年生まれ)は、物心がつく頃には国が軍国主義で戦争までの一本道を大爆走、青春を謳歌することなく戦地に駆り出され、厳しい軍隊生活と生きて帰ることが出来るかどうかもわからない(むしろ生きて帰れない確率が高い)苛烈な日々を経て再び故郷の土を踏み、以降は復興に向けて遮二無二働いてきた自分と重ねているのかもしれない。人間と船だが同志であり戦友。

戦友の花道を見送るために集まった。
ともに立ち会えなかった仲間の無念とともに。



こうして書いていて自分の頭の中には、あの日の空気感まで再現されているのに、自分の文字と言葉の力のなさにがっくりする。

でも書き残さずにはいられない。



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