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終わりのない回遊魚たちへ

 友人が会社を辞めてフリーランスになった。上昇志向の彼は、度々業界への不満をこぼしていたし、彼が「無能」呼ばわりする上司への愚痴を聞かなくて済むと思うと、異業種の私までホッとした。さっぱりした様子の横顔に「職場の人間関係しんどそうだったもんね」と話を振る。すると、「決定的な理由は実は違って。初めて仕事のストレスで体調を崩したから」と切り出された。退社までの数週間、胃炎で一時通院していたらしい。

「そんなのよくあることじゃん」という率直な(でも突き放すような)言葉が喉元まで迫り、慌てて飲み込むが、顔に出ていたのだろう。「病気がちな幼少期を過ごした自分は、健康の有難みをよく知っているから」と彼は強調した。

 ストレスによる体調不良。同じ理由なら、私はデビュー二年目で出版界を離れていた。不規則な生活のためか、SNS上ではいつも知人の誰かが体調を崩している。朝四時に平然とメールがくるし、編集者の顔色が悪い。心配しはじめたらキリがない。十代の頃から「最悪死ななければいい」という極端な目線で、他人や自分の働き方を観察するようになっていた。

 身動きが取れなくなってからでは遅い。「終わり」を決断するには、次へ動き出すための余力が必要だ。自分にとって適切なタイミングで決断し、前進した彼が眩しい。その門出を祝福し、全力で応援すると共に、自分の偏った価値観を省みた。

「ケトル」が本号で休刊のため、この連載も最終回だ。連載期間は六年半に及ぶ。自分のキャリア最長連載の終了は、「エモい」だろうな、と想像していたが、執筆のテンションは普段と変わりなく、むしろ落ち着いている。

 過去には「今回で最終です。お疲れさまでした」といきなり連載終了の宣告を受けて月収がガタ落ちしたり、原稿を送った直後に編集者と音信不通に陥ったり、「いよいよ書籍化」とゲラに赤字まで入れた本がなぜか何年も出ていなかったり。ここに書けない悲惨な事例含め、十六歳のデビュー直後から「めちゃくちゃなこと」に繰り返し遭遇する。唐突に終わる仕事、始まりもせずに頓挫する企画。「めちゃくちゃだな」という感覚も薄れ、「そういうものだから」と受け流し、目の前のことだけに意識を集中する。

 だから友人が「健康の有難み」を噛みしめたように、私は「終わりを踏まえて書ける有難み」を噛みしめたい。休刊という形であらかじめ「終わり」が告示されることは、素晴らしく健全だ。

 思えばここ二年ほど、足元に開いたクレバスの裂け目をじっと見下ろしていた。休刊が先か、自分の限界が先か、と後退りしては、「これが結果、最終回になってもいいように」と迷いを振り切って原稿を書いてきた。私にとっては、毎回が特別で「エモ」かった。

「エモい」。毛嫌いする人も少なくないこの言葉を、私はずっと憎めないでいる。切なくて懐かしい、胸が熱くなる感覚のこと。それを「エモい」の一言でまとめるのは怠慢だ、感情の細部を描写することを放棄している、というのが嫌われる大きな要因らしい。

 もし仮にすべてを言語化したら、それは脈絡ない思考の垂れ流しになるだろう。表現の取捨選択を繰り返し、細かなニュアンスの違いや語感の響きまで吟味し尽くして、それでも言語化しえない何かに触れたとき、言葉に対して謙虚になれる。文脈から切り離して、言葉そのものを嫌うスタンスは、表現の可能性を狭めるようで勿体ない。

 この連載のタイトル「回遊思考」は、思考の迷路を自ら愉しむ、自由な回遊魚のイメージで名づけた。デビューしたばかりの「迷子」の頃より、少しだけ自律した自分を重ねていた。

 第一詩集が今秋ついに文庫化された。単行本から十一年。再び中高生時代の作品と向き合うことになるとは。とうに「終わった」つもりでいても、続きがやってくる。読者が旧作の感想を語り、書き手の声を引き継いでくれる。文庫の感想ツイートで、特に印象強かったものは、詩に初めて触れた方の「この感情を表せる言葉もまだ持ってないな」と、十年前に単行本を読まれた方の「言葉は生きてるのだろう。だから人はそれを育むことができる」という声だった。紙の本や雑誌は遅れて届く「可能性」を秘めている。

 言葉も私も生きている。「声」を送り出しては、また新たに迎える。目を閉じると、言葉の回遊魚たちが鱗を光らせ、泳ぎだす。永遠を描き切るまで、クレバスの下、水底をきらきらと巡り続けている。


*2020年11月に執筆したエッセイです。
*初出:「ケトル」Vol.57 2020年12月発売号
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●エッセイ〈回遊思考〉、カルチャー誌「ケトル」にて連載中です。
各回をマガジンに順次アップします。2014年6月より連載開始。
担当編集者さんの了承をいただき、基本的に無料公開です。

「ケトル」最新号の詳細はこちら
*12/15発売のvol.57〈いくえみ綾 特集〉をもって、「ケトル」は休刊となります。

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