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神様の存在を信じたくなるとき――イ・ラン『神様ごっこ』について *追記あり

*2016年11月に執筆したエッセイです。

 黒い服を着た女性の端正な横顔の写真。ふしぎな表紙の本、と思って手に取ると、アルバムだった。歌のCDと、エッセイが収められているらしい。『神様ごっこ』? その場で試聴した歌に妙に惹かれた。柔らかな抑揚で結ばれていく韓国語の歌声が、秋の始まりにぴったりだと思った。

 夜、家で彼女の歌を聴きながら、付属冊子のエッセイを読み始めた。作者のイ・ランは一九八六年生まれ。ソウル近郊で育ったシンガー・ソングライター。映像制作を生業とし、漫画家でもある。音楽家としてのデビューは二〇一一年。以来、日本でのライブも定期的に開催してきた。

 だが、そんな情報よりも先に、私は彼女の作品に引き込まれた。思いがけず深く、涙をこぼすくらいに。
この欄で過去に紹介した、アメリカの女性作家エイミー・ベンダー。イ・ランのエッセイを読みながら、エイミーの小説のヒロインがここにいた、と瞠目したエピソードがある。

 あごの痛みに生活を〈支配〉されている、という彼女。家にいるときは何でもないが、仕事で人と会うときは100%あごが痛くなる。痛みの原因は〈緊張〉だと分析し、緊張を強いられる街ソウルを描き出す。街の姿は、幸福とは正反対。けれど彼女は、緊張の中に帰っていくことを辞さない。なんて繊細で、力強いんだろう。

 驚かされたのは、「死」に対する鋭敏な感覚だ。友人の誘いでスキューバダイビングの資格を取りに行った際、彼女は海での実習中に泣き出してしまう。〈「してはいけないことをした」気分になったからだ〉。水深22メートル、〈この空間で私を生かしてくれたのは、だらりとぶらさがった装備、そして口にくわえたレギュレーターだけ〉。〈まるで一度死んで再び生き返ったようだった〉と死の恐怖を綴る。

 その一方で、〈死がやってくる前に、自分から死んでしまいたい〉とも記す。〈私は生を愛している。愛するあまり生に執着して、だから死が怖いのだ〉。痛み、緊張、愛と、死への恐怖。彼女の歌に、柔らかさだけではない、張りつめた〈存在〉の糸が見えてきた。

〈私の存在は重くて辛いのです/耐え難いほどたくさんの人と会うことになり/ひとりを感銘させることも難しく/二度と会わない人たちと挨拶を交わし/理解できる感情はだんだん増えていく一方で/それを話したり歌ったりすることは もっと難しくなっていくのです//それなのに/わたしはなぜすべてを知っているのですか〉。

 先日、ライターの雨宮まみさんが急逝された。沈んでいたとき、知人経由でイ・ランのインストアライブを知った。生の歌声はCDで聴いたときの百倍良かった。厚みのある声に、抱かれる心地がした。

 若い男性客が、彼女に雨宮さんの著作をプレゼントしていた。後日わかったことだが、雨宮さんの遺品の中に『神様ごっこ』があったという。
誰がいつ決めたんだろうか? こんな小さな偶然を思うとき、私は神様の存在を信じたくなる。

*2016年11月に執筆したエッセイです。
*初出:「ケトル」vol.34 2016年12月発売号

【2021年の追記】ラストに登場する「若い男性客」ですが、このエッセイを書いてから程なくして、某古書店で再会しました。私は会計に並んだ客で、彼はその店で働いていました。やはり神様の存在を信じたくなる。

今年2月、clubhouseでイ・ランさんご本人とお話しすることができました。緊張しながらも、私の作品が一部でも韓国語に訳されたら真っ先にイ・ランさんに送りたい、と勇気を振りしぼって伝えました。実現したいな。

そして『神様ごっこ』2016年初版は完売により絶版になったらしく、2018年に増補新装版として新たに発売されています(2021年4月現在)。
(スウィート・ドリームス・プレスさん、ありがとう)

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