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【小説】ブリキの眼鏡
今はまだ、君の輪郭なぞれるんだ。
伸び縮み、揺らいでいく、実態のない日々。
幸福には名前がなくて、それはつまり形にもなくて、コマ撮りになって残った記憶だけが積み重なって、引き出しの中を圧迫する。
法学部の棟を跨ぐ、渡り廊下を歩く君を遠目に見て、ようやく俺は外にいる君を知った。
どう頑張ったって救いようのない場所にいる君を、他人事のように埋もれてしまった君を、少しまひの残る脚を引き摺る君を、奇跡なんてないままの世間を、
見なかったことにできる、ふたりという檻。
遠視の俺にとって、君は近くにいればいるほどぼやける。
2人の間でどんどんぼやけながら、視界いっぱいに君は笑う。君の名前も、輪郭も、立場も生い立ちも容姿もその全てが、一様にぼやけてどうでもいいことになる。
ふたりでいればスキップができない君の、不器用な喜び方を美しいと感じる。君が望むように世界を歩けるまで、ずっと隣で練習に付き添いたいと願う。
君と近付いて顔を合わせたとき、君の気持ち以外の何も見えなくなる。
君に私が見えなくてよかった。
君はいつも無邪気にそう言う。見えない方が、分かってもらえる気がするから。
君はなにか特別なわけではない。俺はなにか特別なわけではない。なのにどうして自分が平均より少し上でないと、悪戯な気持ち抱えて焦ってしまうのだろう。
渡り廊下で水溜まりに足を滑らし転びそうになった君の、輪郭が眼鏡越しに痛いほど鮮明に見えた。
一瞬我を忘れて手を伸ばしそうになって、ここがあまりにも遠い事に気が付いて、俺は手を戻した。遠くから眺める君の輪郭はあまりにも小さくて、在り来りで、はっきり言うとどうしようもなく情けなく見えた。
自分のそんな感情に初めて気が付いた。盲目になるだなんてよく聞く言い回しが頭を巡って、そういう訳じゃなかったはずだと酷くむしゃくしゃした。
俺と居ない時だって、君はいつも同じように弱い。
雨上がりには気を付けて。
君の歩き方はそんなに不格好に見えないよ。
いつか事故の前みたいに走り回れるように練習しよう。
何度も君に言ってきた。言い聞かせてきた。自分自身にも。
まるで想像するような未来があるような気がする。2人で理想を語れば不可能が可能になる気がする。俺は、救世主になれる気がする。
俺一人が差し伸べる手では、君は変われない。
だけど君は変わったふりをする。亮くんのおかげだよって、ぎこちなく笑っている顔はぼやけて、俺たちはブリキで作ったような幸福の中にいる。
3年前の講義室で、君も俺も大勢の中の一人だった。そしてきっと、もしこの繋がりが途切れた時、俺たちはまた互いを見失うだろう。
スクランブル交差点で、髪型と服を変えた君を見かけても、俺にはわかる自信が無い。
幸福は手の内に残らず、膨大な時間が認識もされぬまま過ぎていく。大切なものはぼやけて見えないまま、言い表そうとしては失敗するのだ。
遠く離れた俺は、君のことを在りのまま見れるだろうか。
綺麗事抜きで言えば、俺は、余計なことばかり気にして君の輪郭に怯えるのだろう。
だけど近くにいる間、すっかりぼやけた君の角の取れた温かさや美しさや気さくさが、俺の心を溶かしていることも確かなのだ。
離れた時の残酷めいた自己愛を、
見ないことが出来る、ふたりという救い。
無垢故の冷酷さがあるとすれば、知りすぎた故の優しさもあるだろう。子どものように居られなかったとしても、もう一度不器用に歩き方の練習を始めたらいい。
俺は君の純粋な味方じゃない、世界はそんなに綺麗じゃないって、擦り切れて剥き出しになった本音だけがグロテスクで。
罪悪感に苛まされるほど、ただ純粋に君の味方でいたい。
俺ばかりが気にしているのだろうか。
君を傷つける人が、君を嗤う言葉が、君を隔てる雰囲気が、もしこの世になかったのなら
やっと俺は君だけを、
度のないブリキの眼鏡できちんと捉えられるようような気がする。
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