見出し画像

心を閉じて、誰もそこへは入れないで。

気付けば6月に入り、いっそう日照り増す日もあれば、梅雨の頭がもたれかかり肩を濡らす昼下がりも増えた。これまでの私ならば“あの憎しい夏”や“忌むべきレッドサン”と言ったように、目の敵にしていたと思うが、今年はそれほどまで憂鬱ではない。紫陽花の薄青の風が、ただ伸びた髪を揺らす。


楽園The Beach

私は「どこに行きたい?」「なにがしたい?」「なに食べたい?」といったよくある問いかけが非常に苦手で、誰と出かけるにしても仮にそれが胸躍るデートだとしても、私はあなたがいる場所であれば本当にどこでも(なんでも)かまわないと真心こころから思っている。けれどそれは何故だか伝わりづらく、その問いに対し「どこでもいい」「なんでもいい」は具体性や主体性のない、“後ろ向きな答え”だと捉われやすい。私はそれが不服でならないのだが、それを知っているからある程度選択肢を絞ることをワザとやっている。子どもぶって「〇〇行きたい」とか「〇〇食べたい」と本音と建前を散りばめておいて、それを拾ってくれるならそれだし、たとえ拾ってもらえなくても、切り札の「あなたはどう?」とカードをきれば、そこに全乗っかりすることも出来る。でもそんな駆け引き、本当ならいちいちしたくはないのだ…何故なら“出掛ける”というのは私にとっては特別なことで、たとえほんの一杯のコーヒーの時間でさえもが、誰かと空間を共有するその時点で有難いことだからだ。そうは言っても会話の比重を相手だけにかけるのは全然フェアじゃあない。だからいつもやむなくこうして自分は自分の真意を少しそらして、わがままなお願いをときどきしている。それはある種のおべっかで、相手の顔色を伺って怠け者BADの烙印を押されないようにしているだけだ。押されてしまったら最後、死ぬまで悪霊どもに付け狙われるなどと、ありもしない地獄に怯えて、城から出ずに楽園だけを夢に見ている…。それって結局のところ主体性のない受け身のコミュニケーションなのでは…?。それこそ怠け者では…?。厳しいかもしれないが、主張のないヤツがテーブルに付いて、同等に食事する権利なんてなくない?(コレは私にだけ適応されるルールである、本来生命体はどんな時も自由であるべきだと理解っているし、祈っているし願っている。)少なくとも私はそう思う。踊る気がないならダンスフロアにいる事すら間違ってる気がする…楽園The Beachなんて夢のまた夢で、ひとり孤独と添い寝して虚しさのタオルケットすら持っていない。なんて哀れなんだろうか…。

『タイタニック』で一躍スターとなったディカプリオが、幾つものオファーを蹴って受けた主演映画、『The Beach』(00')の中で、自分たちの楽園を守る為には、それを壊す因子は全て排除しなければならない、だが果たしてそれは本当の楽園なんだろうか…?と問いかけるような描写がある。その映画では、楽園は必ずしも物理的な空間や、未来の時間軸に存在するものではないと高校生の私は読み取ったのだが、大人になった今でもそのメッセージはきっと間違いではなかったなと感じている。楽園って一言は日本人の感覚として特別感が高い。けれど宗教的にはあまりピンと来ない。なんとなく「いい場所」みたいな認識の人もいれば、極楽浄土の様な死後の世界といった認識もあって、だからこそこの映画の中で、Beachを楽園と翻訳した人は賢いだけじゃなくて、ユーモアや冒険心も持ち合わせた翻訳家なんだろうなと思って感心する。


なにもいらないClose to You

なんの映画だったか「鏡の前に立つときはもう少し離れて立つことね、あなたの後ろで泣いてる人が見えるように。」のような台詞があったのをふと思い出して、時々私の後ろはどうだろう…と振り返る時がある。多分これまでの短い人生の中でも多くの人に恨まれて来ただろうなと今は大きく反省している。そんなことしたってその人たちが救われることなどないだろうが、それさえしなかったら猿以下である。よくある“過ちは繰り返してはいけない”の最小単位は、やはり自分を顧みることだと思う。それすら出来なかったら戦争や侵略みてーなクソデカ過ちなんてなくなるわけないよ。悲しいけど。でもその逆で、自分を顧みて悔い改めることができるのなら戦争だってなくなるかもしれない。知らんけど。
今、私のそばにいてくれる人達に、私はたったひとつだけを求めている。どうか自由でいてくれ…このひとつに尽きる。それ以外はもうなにもいらないのだ。それを無責任ドライだと思われてしまうのなら、もうそれは仕方のないことだが、私がこうして祈っている事すら、本当は届いてほしくないのだ。だってそんなの至極当たり前のことだもの。人がめいめい自由に生きるなんて誰に言われるでもなくそうあるべきだよ。でもこのいきぐるしい世の中で、私も含めてあまりに生きるのがへたっぴ不器用な人達が多すぎる…そんな人達を嘲笑って「不適合者だ〜」なんて、上位者saintぶってレッテルを貼る愚者どもidiotsがふんぞり返っているのももうほんとウンザリだよ…。これを読むあなたがどんな夜を過ごしているか、私にはわからないけれど、もしのもし暗がりに沈んでいるのならどうか自由でいてね…どうかその心を静かに閉じて、見ないで、聞かないで…あなたを悲しませるもの。



さなぎTrans

新しい仕事に就いて半年が経った。1月入社で最初の3ヶ月の研修で同期は半分いなくなったし、研修を乗り越えて残った中でも辞めていく人もいた。自分はうまくやれてると思う。それは決して優秀だという驕りではなく、ただ誤魔化すのが上手いだけで、業務に対して(過不足なく)適当にやれている。ただ人付き合いに関しては、異常なほどうまくやれているから不思議だ。(コレはオンラインの仲間達のお陰)
そんなのらりくらりとやって来た私に、6月に入ってすぐ、上司が「吉川さん、この先どうしたいですか?」と幾つかの道を提示してくれた。現状維持か変化か上昇か…まだきちんと仕事を任される様になってから、3ヶ月しか経っていない自分に、そもそも何かを選ぶ権利があるのか…?と恐れ多くて「いやぁ〜僕なんて〜…」とかへらへら笑いながら卑下している自分に「オレは吉川さんならなんでも出来ると思ってますよ。」と真剣に言われ、精神病に対してのプラスもマイナスもなく職場での振る舞いや、業務のパフォーマンスを見たうえで「どうしたい?」と言ってくれているんだなと素直に嬉しかった。
「…上位の部署へ行きたいです。」自分の口から出ると思わなかった。向上心や成り上がりの精神なんてもう1ミリもないと思っていた、けれど鬱でまともに生活できなかった頃を思い出してみると家の外に出るどころか、トイレやお風呂に行くのだってなかなか難しかった。一日中布団に寝そべって、それは夏場の田舎道で干からびた犬のクソとなんら変わりなかった。それが今は電車に乗って通勤して、色んな人と快活に話して、イイ関係を気付ける様になった。もうそんなの地球が裏返って空に落ちてく様な話だろ。それもこれも全て忌々しい鬱のあと、やさしさをかけてくれた人達すべての御心のお陰であり、そのたくさんの慈悲がオレの未来を創ったと言っていい。その人たち全ての顔を思い浮かべて眠る夜は自分にとって、一生失くしてはならない大切な夜なのだ…。
7月から部署が変わる。新しい業務と新しい人たちと新しい環境と、また大きく変化する事に、この脆い精神が耐えられるかは正直言ってわからない。でもきっと出来ると思う。今まで色んな人がそばで「できるよ」と声をかけてくれた様に、もうそろそろ自分も自分を認めて「きっとできるよ」と背中を押したい。焦がれた夏がもう目の前に来ている、渚には一縷の希望を寄せて…。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?