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死について考えた文を集めたマガジンを創った

死について考えたことがあった時のnoteをマガジンに集める作業をしました。ヘッダ画像をお借りしています。

字にして客観的に観るとわかるんだけど、なんかすっげー重苦しいことしてんな……と思える。編集している当時はそんなに何も思わなかった。

テンションが高くないと死は扱えない

note内における他者の反応とかアクティビティを目にする機会をぼくは必要ないと思っているのに、note側は一方的に他人からの反応を受けろ、もっと受けるようにしろ、そして喜べというようにUI周りをガンガン改変してくるので、ぼくは自分が過去に書いたnoteをようけ見返せへんかった。

そしてその問題をクリアする方法を見つけた。だからここ最近は、自分のnoteを振り返る兆候が得られたのかも知れない。昨日もダークパターンマーケティングについてのマガジンを創った。

今にして思えば、なんで編纂している時に、過去のぼくの死についての考え方を探している時に、暗澹たる気持ちにならなかったのか不思議でならない。

だって死ですよ死。ぼくらはいま「死じゃない」から、ここにいる。ここにいて、この文が書けるし読める。でもそれは死が来ただけで無理になる。

死についてのnoteを編纂する作業では死について考えたわけじゃないけど、なんだか「自分が書いたnoteを振り返るという行為」がまるで身辺整理を思わせる。

期せずして死とつながってしまう。身辺整理とは、残念なことに限りなく死に近づいてしまった人がする行為だと思う。終活とかがそれに近いんじゃないだろうか。ぼくは終活をしたことがないから想像です。

だからこの行為に及んだ後のぼくの今のテンションが死に近づいてしまう、死に何かしら持ってかれてしまうんじゃないかと思ったんだけど、こういう「過去を見返す行為」ってある程度テンションが高くないとできなかった。

だってそれは、ぼくが過去に遺したデジタルタトゥを観る行為となんら変わりがないからです。

だから、死にぼくの何かしらが持ってかれることは今の所なかった……と思いたい。

死について編纂した理由は、ぼくが意外と死について書いていることに気づいたからです。また映画とか漫画を観るにつけ、どうしても避けがたいテーマとしてそれらがあるというのもあった。そしてごく近しい人がいなくなってしまうこともあった。好きな漫画家がそうなってしまうこともだ。

人のいなくなりとは穴だ

人がいなくなってしまうことについて、その穴を埋める行為は一筋縄ではいかないはずだ。

つまり人とは、正確には「生きている人」とは、生きている他者の穴を埋めてくれる存在なのでしょう。だから、誰か大事な人を失ってしまった人はそれを知った時にどこかに穴が空いてしまう。

この穴は様々なダメージを与えてくると思う。怪我みたいなものだろう。もしかしたら失恋にも似た効果があるかも知れないけど、メラとメラゾーマぐらいは違う気がする。いや……やっぱりメラミとメラゾーマぐらいにしたほうがいいだろうか。

もちろんそれほどの大きな穴を、ぼくのnoteごときで埋められるとは思わない。

だけどその感情に名前をつける行為(死についてたくさんのことをどうやらぼくは考えていたらしいので、名前までとはいわなくても何らかの輪郭が見えるのかも知れない)で少しでもその穴が埋められる(可能性がある)のであれば、参考にされたい。

昨日は批判ばっかり混じったnoteを編集したけど、流石にこのテーマで批判は……してるかも知れないけど、ひとりで考えるのがきつい時にひとりじゃない感覚になれたら良いなと思う。もちろんそれを真っ向から目指したわけじゃないんだけど。

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