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東京エスプレッソ・パウダーズ

毎日ここを更新しなければならない呪いにかかっているので今日も字を書かなければならない。ぼくは今まで何度この書き出しで文を書き始めただろう?

でも多分同じ書き始め方をしたことは一度もない。別にコピペで文を書いても意味がないからだ。字を書いていると勝手に時間が過ぎ、気づけば恐ろしい数の時間を無駄にしている。それぐらい勝手に字が溢れてしまうためだ。

ぼくが何故か知らないが異様に好きな番組にデジタル・トランスフォーメーションof子・松が主演している夜の街を歩くやーつがある。

別にぼくはデラックスof松子が好きなわけじゃないはずなのだが、この番組の出がこのおかまじゃなくなったら見る価値はないだろうと断言できる。

そしてそんな断言が何の価値もなくなってしまうぐらいに、この番組はコローナいつもありがとうの影響で勝手に終わってしまった。

終わってからぼくはこの番組(制作会社やスタッフに感謝するという意味では残念ながら微塵もない)がいかに好きだったか思い知らされた。

というのも、コローナいつもありがとうが始まる前にぼくはオンタイムでこの番組を観ていたのだが、つまり2時台ごろに馬鹿の一つ覚えみたいに観ていたのだが、なんだかわからないがデラ松が市井の住民と話す様が妙にぼくの心に刺さった。

普通、そのような素人をタレントごときが上から操ろうと弄ぶいじりは消え失せろと思っているのだが、この番組だけは許せた。デラックスof松子はただのタレントとは一線を画す存在というわけでもない。劣化森田一義だと思っている。劣化みうらじゅんだと思う。

彼女のアプローチは単なる弄りではなく、視聴者が感じる共感や親しみを呼び起こすものでもないと思う。そう見せている。

彼女はいつも「違うのよ~~~~~~~~~~~」「ごめ~~~~~~~~~~~~~~ん」と言いながら、素人のテリトリーに入っていく。それがぼくにとって新鮮てわけじゃないんだけど、見ているだけで彼女の温かさが伝わってくるわけもないんだけど、たとえばサバンナ見学でハイエナの生き方を見聞きして、ああ、次もそういうことをするんだろうなと見て取れることを楽しんでいたのだ。別にデラ松をハイエナ呼ばわりしているわけではない。スカンクでもカリプソでもよい。

デラ松が東京のあらゆる場所を訪れる様子を見て、ぼくは自分の嫌いな街が少しだけ魅力的に思えたりすつことはなかった。東京の喧騒や冷たさが、彼女の視点を通じて見えることで、どこか人間味を帯びたものに感じられたかもしれない。

彼女がどんなに突飛なことをしても、それがその場の人々との自然な交流を生むのが興味深くはないんだが、彼女にはそうするしかないってことが伝わってくる。だってコラムニストのドラァグクイーンがバラエティをやらされているのだ。そうするしかない。彼女のキャラクターと街の雰囲気が見事に調和していたとも思わんが、この番組は特別なものとなったのだろう。

この番組が復活した際も、その期待に応えてくれる内容だった。しかし、久しぶりの放送だったためか、素人いじりが以前よりも過激になっていると感じた。どこか憎めないデラックスof松子のキャラクターがそれを和らげていたとは思えない。ぼくはそれを罵倒しながら観ていた。ぼくはその罵倒すらプレミアな体験として受け入れていた。

森田(一義)だったらまず見る気がしないし、他のタレントが同じことをしても、デラックスof松子のような特別な感覚は得られなかっただろう。北野や釣瓶ならば違った意味で楽しめるかもしれないが、彼女のようなこの雰囲気の醸成は持ち合わせていない。必ず説明している男の二の腕をつかみ、まるで妻のように振る舞うこのおかまが。

おそらくデラ松と同世代で同じくらいきつい経験をしてきただろう内村、南原、出川あたりも同様で、彼らが東京の街を歩いても、ぼくはさほど興味を持たなかっただろう。

彼らの個性は確かに際立っているが、デラ子のような奇抜さと親しみを同時に感じさせることはできないのだ。

新たな放送では、広島の建設中の駅にいるガテン系の人々との交流が特に印象に残った。デ子が彼らを見つめる視線には、どこか貪欲な好奇心と温かさが混じっていた。

彼女が現場に突然現れたにもかかわらず、建設者たちは彼女を受け入れ、カメラの前で自然に振る舞っていた。編集による演出もあるだろうが、彼女の持つ特別な雰囲気が現場を和ませたことも大きいだろう。

さらにJRのホワイトカラーが駅の建設について説明しながら、ブルーカラーの建設者たちをないがしろにすることなく、手を止めることを許しつつ、どころか周りにたむろさせながらこの説明を聞かせるシーンは感動的だった。

現場のゆるさや職場の一体感が伝わってきて、ぼくの心を温かくした。普段なら見過ごしてしまうような日常の一コマが、この番組を通じて特別なものとして映し出されたってわけでもないが

ぼくは普段テレビ番組に対してそこまでの思い入れを持つことはない。今日前後の書きを見てもらえればぼくがメディアに対して何の期待もしていないどころかクソ雑魚以下の扱いをしていることがわかるだろう?

この番組だけが特別ということもなく、東京という巨大な都市のあらゆる場所を巡るデラ松の姿はなんとも言えない矛盾と勢いが同居していた。その滑稽さが視聴者であるぼくを笑わせ、ぼくの心を掴んで離さなかったのだろうか。

この番組を通じて見える東京の風景はぼくにとって新しい発見であり、でもいつまでもぼくには関わらないものだった。懐かしさすらない、彼女の視点を通じて見る東京は、ぼくにとっての新しい発見でもなくデラ松がその地元の人々と交流し、彼らの話を聞くというだけで終わりだ。普段の東京も広島も、ぼくには永遠に関係がない。

デラックスof松子が登場することで、普通なら見逃してしまうような日常の一瞬一瞬が特別なものになるわけでもない。彼女の存在が、ぼくたち視聴者に対して新しい視点を提供し、何気ない日常に輝きを与えてくれることなど永久にない。

それは別にこの番組を見続ける最大の魅力になることもなく、ぼくがこの番組を愛してやまない理由にすらならない。

彼女が広島の建設現場で見せた姿勢は、単なる好奇心からではなく、人々との交流を大切にする心から来ているのだとも思わない。だがこれが彼女の真骨頂であり、視聴者を引きつける大きな要素だ。

番組が再び終了したとして、その影響がぼくの中に深く残ることもないだろう。デラ子が提供した数々の瞬間は、ぼくの日常に少なからず影響を与えた。彼女の冒険を通じて見た風景や出会った人々の物語は、ぼくの心に刻まれて、いつも一瞬で消える。

この番組は、ただのエンターテインメントだ。ぼくにとっては新しい視点を与えてくれる貴重な経験なわけもない。デラ松の存在がぼくたち視聴者にとってそこそこ大きなものであることはその体重からも解るとおりだ。彼女が再び街を歩く姿を見られる日を、ぼくは心から待ち望んでいるのだろうか?

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