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故人の誕生日を迎えたら何をするべきか

故人の命日は覚えないようにしています。その日に何が起こったをぼくは知っていて、悲しくなるから。

故人の誕生日は覚えています。故人の誕生日は果たして祝われるためにあるのでしょうか?

そもそも、「誕生日であることを表明した相手を、何としても祝わねばならない」という文化がこの国―――――とくにSNS上では散見されますが―――――誕生日を1番労われるべきはその当人のお母さんであるべきです。

当人がその日を迎える意味を創ったのも、全ては母親が産婦人科のベッドの上であなたのために想像を絶する時間耐え続けたから。あなたという生命が存在するために必要な全ての選択肢を途中で挫折することなく選びきったから。

ホラーゲームなんかに例えるなら、決められた時間に必ず殺されてしまうヒロインなんかを救うためにゲームの特性であるような技能として時間を巻き戻したりなんかして、あらゆるハードルを乗り越えて相応の疲労や時間、あるいは残酷なシナリオを見せ続けられるような精神的苦痛という犠牲を得ながらヒロインの救出=クリアに導くというような体験が該当するでしょうか。

泣きゲーをクリアすると感動しますよね。時間を掛けてゲームと向かい合うと、登場人物たちに愛着が湧き、その関係性を愛おしく思い始める。

母親たちはそのような彼女たちだけにしか得られない彼女たちなりのストーリーを経て、あなたの目の前に立っているんですね。

従いまして、ぼくはSNSなんかでプロフィール欄に風船が飛んでいるショットをこともなげにアピールしたり、剰(あまつさ)え誕生日が近づくにつれSNSの名前欄に日付を挿入し、生誕祭等とご自分で発せられる層に関して上記の理由からお祝いのメッセージを述べたことがありません。

話が逸れました。

故人を尊重するとは

しかしながら、故人が誕生日を迎えた際、それを覚えている者は故人を尊ばなければならない気がする。上記「おかあさんの法則」に従うのであれば故人の親御さんを祝わねばなりませんが、往々にして両者とも故人となっているケースが多いように思います(法則について今命名しました)。

故人となってしまうのであれば、なにか当人を祝うことに躊躇いがなくなる。生きている時にわざわざ誕生日を祝わなくとも、生命が与えられた状態であるだけで喜びを感じる方法はいくらでもある。だから余計にその生命を与えてくれた存在に目が向いてしまうのかも知れません。あくまでぼくの場合、主観でしかありませんが……

故人を尊ぶとはそもそもどういった行為を指すのでしょうか?

そして故人を尊んだ場合、故人はどう思うでしょうか。喜んでくれる?

逆算みたいな考え方ですが、それならばぼくらは故人に対し、もし生きていたら喜んだであろう行為をおこなわなければならない。

もう存在しない対象について行為をするわけであり、実体を伴わない行為とも呼べる。つまり祭事ですね。

故人は何を喜ぶのか

故人は何を喜ぶのかどうか、生きている側にとっては古今東西いまのところ知るための手段がありません。

仮に死んだ生命にしか見えない世界があるのだとしても、あちらからこちらになにかを伝達する手段は一切ないように思われます。

こちらからも伝わっているのかどうかはわからない。もしかしたら過去から現在に渡って脈々と行われてきた盆なんかの行事の中には、生きている側からなんらかの思いが彼岸へと伝わっていることもあるのかも知れませんが、生命側と故人側の間にインタラクティブ性はないため確かめようがありません。仮にどこかの過程にインタラクティブ性があったのだとしたら、それだけでこちら側とあちら側がつながっている状態にあると断定できてしまう。

伝わっているかどうかはシュレディンガーの猫状態であるため、ぼくらは例え0.1%でも伝わっているかも知れないならその可能性に全ての想いを託して祭事を行う。そのほうがロマンチックだからとかそういうものではなく、こちら側に救いがあるからですね。全てこちら側の都合です。もしかしたら事実を都合よく捻じ曲げているかも知れない。しかし、それでも故人に侘びたり、新しい喜びを伝えたりするために、祈らずには居られない。

「故人はこうすることで喜ぶのだ」と自分たちをだまくらかすことしか、生命を持っている側にはできない。祈りとは生者のために行われる、救いを求める行為ですね。

「故人になる」とは

故人になるとはどういうことでしょう?既に存在している全ての事象に、もう影響を及ぼせないということ。自分の身体というメディアを使ってこのように字を書くこともできなくなる。身体を動かすための決定的な何かを失ってしまい、それが当人が生命を失ってしまったのだと客観的に判断する材料となります。

影響が与えられないということは、大切な人を喜ばせるための言葉を掛けることもできない。もし故人に意識があったらと思うと、そんな残酷なことはないようにも思えます。

故人のために集まった人々は一様に真っ黒いフォーマルを身にまといます。はたから見ればとてもつらそうに見える。

祈りとは違って、その場所にはかつて命があった時と同じ姿をしている故人の身体があるだけで、世間体や自己満足程度のためにしか葬儀というイベントは存在しない。個人がそれぞれの必要な形で祈りを捧げれば、わざわざ葬儀というイベントのような形を取らずとも生者として救われるはず。

どんな意義があろうと、その源流を知らない世代が客観的に見てただただ悲しい演技をしているだけに見えるのであれば、少し変える必要があるのではないか。示し合わせたように暗い衣服を着て、暗い顔をして集まって、暗い気持ちを共有して、往々にして配布される冷たい米の上に生魚が乗ったような非常に消化の悪い生者の健康状態を脅かしかねない食べ物を故人の前で食べる。冷たい酒を飲む。言うまでもなく冷たい酒も臓器の体温を著しく下げるため健康状態を損ねます。

故人の喜びとはなにか。身も蓋もない言い方をしてしまえばもう一度生命の活動が得られること。しかしそれはかなわない。

だからやはり想像するしかありません。もし故人が生きていたら、何を喜んでくれるのか。

彼女/彼の誕生日にぼくらがめそめそしていることを個人が喜ぶとはとても思えません。だからぼくは今日も明日もなにか身体に良くて美味しいものを明るい気持ちで食べるのでしょう。

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