見出し画像

漫画ののちゃんの「意味不明さ」は平和のバロメータなのか

サイト内機能でヘッダ写真をお借りしています。

ののちゃんとは新聞の朝刊に掲載されている漫画で、数こましかありません。数こまで30面ものニュースが載っている新聞全体から抽出した内容を風刺するにはなかなか厳しいものがありますね。

新聞に漫画を載せる意味とは?

新聞に載る漫画とは、すべからくその新聞の意向を反映すべきなのでしょうか?憲法的な意味で表現の自由に基づけば全くそんなことはないといえますが、少なくとも漫画家と業務委託契約を結んでいる新聞社からしたら、全く新聞の方向性を汲み取ってくれない漫画家と契約する意味・理由はないように思えます。悲しいことに(文化的には嬉しいことですが)漫画家は結構います。ぼくらは二律背反を自然に産み出す国家の中に生きている。

結論を話せば、ののちゃんが載っている新聞は平和だといえます。

コボちゃんあたりと比べると、ののちゃんの意味不明さは結構顕著であるように思える。前者はせりふ数が多いながら、後者は最後のこまに注釈だけ文字が書かれて説明して終わるみたいなことも多い。こと文字に関して無理やり比較するのであれば。

漫画だから絵で勝負しろという考え方もあるかもしれませんし、そもそも文化は比べるものではないという意見もあるでしょう。こちらの考え方にもぼくは賛成も反対もしづらいと思っています。

漫画だから絵だけで勝負する必要はない。漫画内にある吹き出しなんて漫画にしか無い表現方法ですね。漫画メディアでは字も大きな武器ですし、サイレント漫画はそれはそれで文化です。

そのサイレント感覚に近いベクトルを持ったののちゃんは、連載年数を重ねるごとに次第に説明することの野暮ったさみたいなものをストレスとして抱えるようになったのではないかとぼくは推測しています。

新聞メディアに連載しているんだから、漫画が印刷された紙面の周りは学歴の良さそうな活字で囲まれている。エリート活字に囲まれた漫画がぽつんと右上に配置されている。そこに字を置いても何か説明し過ぎな感じがしないか?(ぼくはそこまでは思っていません)

いわば新聞という長い物語の挿絵でも書いている風な感覚で捉えて欲しいと思うからこそサイレント気味になるのではないかという考え方ができる。あくまでまだ視野の狭いひとつの角度からの考え方でしか無い。

フジ三太郎

ぼくは親戚等の文献で読んだことがありますが、ののちゃんの前の連載(仮にその間に鳴かず飛ばずで終わった連載があった場合は把握できていませんのでお許しいただけたら嬉しいです)であるフジ三太郎は風刺色が非常に色濃かった。

太平洋で重油が漏れれば白鳥が黒鳥になる漫画を書き、8/15付近ではリメンバー・パールハーバーと言う外人とノーモア広島と言うフジ三太郎を出した。フジ三太郎に「どちらが平和を推進しますか?」と言わせ、外人は考えを改めてノーモアパールハーバーと言い直した。

ののちゃんにはそういう情緒はありません。作者の意向なのか、新聞社の意向なのか。

なにか興が乗ってきたのでまた明日……お読みくださりありがとうございました。

この記事が参加している募集

マンガ感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?